管理組織

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玉川上水を所管した幕府の部局は、一七世紀後半では上水奉行と江戸町年寄、元禄六年(一六九三)からは道奉行、元文四年(一七三九)からは町奉行、そして、明和五年(一七六八)以降は、幕末まで普請奉行であった。これらの所管部局のもとで、玉川上水はどう管理されていたのだろうか。以下、上水の管理にあたった組織について、要点を絞り、記述しておく。
①水役(水元役)
 江戸に引かれた各上水道には、その開削者の子孫で管理にあたる者がおり、彼らに対する役名を水役(水元役(みずやく(みずもとやく))といった。玉川上水の場合は、元文四年まで、玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟がこの役職にあり、上水の管理を請け負っていた。彼らは水道使用料として、江戸の上水利用者からは水銀を、また小川村のように玉川上水から分水を引く村々からは水料を徴収した。後者の水料は、分水を飲料水として利用する場合は水料金、灌漑用水として利用する場合は水料米とされた。そして、徴収した水銀や水料をもって、上水の修理などを行っていた。しかし、元文四年七月、両名は突如、勤務不良を理由に玉川上水水役を罷免され、玉川上水は幕府が直接管理するようになった。

②羽村陣屋
 上水を管理するため、多摩川からの取水口のある羽村に設置された幕府の陣屋(じんや)である(図2-47)。明和五年、上水を所管する部局が町奉行から普請奉行に移されて以後、普請方の役人が常駐するようになり、水量の調節や監視、修復工事の手配と連絡などにあたった。『新編武蔵風土記稿』の羽村の項にも、陣屋(「郡署」)に関する記事があり、「水門進退のため川のほとりにたてをき、御普請方同心常に来たりて在住す、四月より八月までは二人、其の他は一人なり」とある。


図2-47 羽村陣屋と水番小屋
『新編武蔵国風土記稿』多摩郡第12巻p.267より転載。

③水番人
 百姓や町人のなかからも、上水管理に起用される者がいた。それが、水番人(みずばんにん)とつぎにみる上水見廻(みまわ)り役である。まず玉川上水の水番人は、羽村・代田村(だいたむら)(現世田谷区)・四谷大木戸・赤坂溜池(あかさかためいけ)(現港区)に配置され、水質維持など上水の管理業務にあたっていた。たとえば、羽村の水番人は、陣屋の囲いの外側に建てられた水番小屋に居住し(図2-47)、陣屋に詰める役人の指示にしたがって上水の管理業務に従事するが、とくに、毎日上水の深さから水量を計測することを主要な業務としていた。このほか、代田村の水番人は、上水に設けられている芥留めにかかった芥を、毎日引き揚げることを主な業務としていたし、四谷大木戸の水番人は上水沿いの村方や各所の水番人と、上水を所管する普請方との間の命令伝達、報告送達をになっていた。

④上水見廻り役
 次に上水見廻り役であるが、玉川庄右衛門・清右衛門の兄弟が、玉川上水水役を罷免されてすぐの元文四年一〇月、上水の管理組織整備が進められるなかで、下高井戸村(しもたかいどむら)(現杉並区)名主源太左衛門(げんたざえもん)と、小川村名主弥次郎(やじろう)が、玉川上水見廻り役に任じられた。彼らは、玉川上水沿いの村々での、魚をとる、水浴びをする、塵芥(ちりあくた)を捨てる、物を洗うなどの上水を汚染する行為、また上水両側三間(けん)通りの並木下草などを刈り取る行為の取り締りを職務としていた。源太左衛門と弥次郎が退役したのちは、水番人が見廻り役を兼務することが多くなった。その結果、水番人の職務の中心がこうした見廻りとなり、両役職の差異は曖昧になっていった。なお、五名となった上水見廻り役は、羽村~四谷大木戸の間を四区域に分けて管轄しており、現在の小平市域にあった村々は、小川家の後に見廻り役となった砂川村名主の村野家の管下にあった。