持場を与えられた村々が、玉川上水の管理・維持のために果たさねばならなかった勤めとは、おおよそつぎのようなものであった。すなわち、①高札を大切にして、そこに書かれた決まりを破る者が出ないように見張ること、②土手の草刈りをすること、③玉川上水にかかわる用事でやって来る幕府役人が乗り継ぐ馬を出したり、村に宿泊する世話をしたりすること、④羽村の水門を閉めていっせいに行われる堀浚いに従事すること、など多岐にわたっており、村の百姓たちにとっては相当の負担となっていた。
これらのうち、①にある高札とは、魚をとる、水浴びをする、塵芥を捨てる、物を洗うなど上水の水質を汚染する行為、および上水両岸の土手の草などを勝手に刈り取る行為を禁止する旨が記されたものであり、小平市域では、小川橋と久右衛門橋の北、鈴木新田の南の計三か所に立てられていた。小川村や鈴木新田の百姓らは、こうした持場内の高札を管理し、高札で禁じられていることが行われていないか、見張らねばならなかったが、小川村では、元禄七年(一六九四)・宝永五年(一七〇八)・天保七年(一八三六)に、高札が盗まれるという事件が起きている。
このほかにも、②土手の草刈り、また③玉川上水に関わる用件で通行する幕府役人への対応について、比較的くわしい様子がわかる文書が残されているので、以下では小川村に注目して、百姓たちがこれらの業務をどのように勤めていたのか、具体的にみていくこととしよう。