まず、②土手の草刈りであるが、玉川上水沿いの村々は、幕府役人の通行や水番人の見廻りなどに支障をきたさぬよう、土手の上の草を毎年刈り取っていた。また、刈り取った草は馬の餌や肥料にも使えるという理由で、茅年貢(かやねんぐ)(茅野銭(かやのせん)・芝年貢(しばねんぐ)・芝野銭とも)という税も納めねばならなかった。
しかし、寛政一三年(享和元年・一八〇一)から、土手のうえの葭茅だけでなく、さらに上水内に垂れ下がっている草を隔年ごとに刈り取ることを命じられた。上水の流れをよくするためであるが、この作業は百姓にとって大変な負担となった。すなわち、足場のないところは堀に筏(いかだ)を浮かべてようやく刈り取るほどで、必要となる人員も多数にのぼり、村の全ての百姓が数日稼業を休んで、草刈りに従事せねばならなかった。なお、天保一五年(弘化元年・一八四四)の文書によれば、小川村で、この作業に必要となる人足数は五〇〇人ほどとされている。
草刈りで問題となるのは、刈り取った草の処理である。これらは下流に流してはならなかったので、小川村では、橋ごとに仮の芥揚げ場を設けていた。しかし、それでも下流に流れてしまう草は少なくなく、これらは芥留めのあった代田村で引き揚げられた。その際、代田村は人足を雇っていたが、小川村など草刈りを行った村々は、この人足に支払われる賃金を代田村に渡していた。百姓にとって草刈りは、無償労働であるのに加え、こうした出費をもともなうものであった。
草刈りによって百姓から死者も出た。文化三年(一八〇六)六月二九日、小川村の百姓要吉(ようきち)は葭茅を刈り取っているときに、上水に落ちてしまった。すぐに引き揚げ、治療したが、回復せず翌日の明け方に息を引き取っている。要吉の家族には、手当として銭一〇貫文が支給されたようであるが、この事故は、百姓にとって、上水の土手の草刈りが、いかに危険で過酷なものであったのかをよく示していよう。
以上のような上水の土手の草刈りは、玉川上水を所管する部局の役人が江戸から出役し、立ち会いのもとで行われた。そして刈り取り後、出役の見分があり、二年に一度の草刈りは終了する。