つぎに、③玉川上水にかかわる用向きで通行する幕府役人への対応についてだが、青梅街道の宿駅でもある小川村は、何かと役人の通行や宿泊の世話を求められることが多かったようである。
たとえば、文政七年(一八二四)に、小川村が甲州道中(こうしゅうどうちゅう)の下石原宿(しもいしはらしゅく)への助郷(すけごう)を課された際、その免除を願い出た訴状において、名主小川小太夫(おがわこだゆう)はつぎのように述べている。すなわち、取水口のある羽村に向かうため、勘定吟味役・目付・普請奉行の役人らが通行する際、小川村に宿泊することになっている。近頃は、普請奉行の役人が羽村陣屋に出役し、常駐するようになったため、江戸との間でやりとりされる書類や物品の継ぎ立てが、昼夜の別なく頻繁に行われている。また、普請奉行が羽村を見分するときは小川村に宿泊しているが、その折、八・九軒を宿として提供している。このように、小川村には近隣の村では聞かないほどの「大御用」が課せられているのだとする。
また、文久三年(一八六三)十月、中山道浦和宿(なかせんどううらわしゅく)への助郷免除を道中奉行に嘆願した、小川村組頭の半蔵(はんぞう)と名主小川九一郎(くいちろう)は、小川村は八か所への継ぎ立てを行っているが、とくに、「玉川御上水筋の御用」が多く、村高に不相応なほど人馬が使役されており、一か年に人足三〇〇〇人余り、馬一五〇~六〇匹余りにもなると述べている(史料集三〇、四〇二頁)。
いずれも、助郷を免除してもらうよう、小川村に課されている負担の大きさが誇張されている可能性もあるので、これらの主張は、いくらか差し引いて考える必要はあるが、おおむね事実を反映していよう。
実際、助郷免除を訴願する以外の史料、例えば、御用留(ごようどめ)にも、普請奉行の一行が上水の見分のため、小川村を通行したり、そこで宿泊したりしている記事が確認できる。とくに、文化一四年(一八一七)の普請奉行鈴木相模守正義(すずきさがみのかみまさよし)の見分では、小川村が一行の宿泊先になるとともに、人馬の継ぎ立てを行っている。このときは、名主弥次郎宅に普請奉行鈴木ら一五名、組頭茂兵衛宅に八名、百姓林蔵宅に四名が宿泊し、継ぎ立てには無賃人足一四名と馬一匹、それ以上に必要となった場合は、所定の賃銭で人馬を供出することになっていた。