植樹と橋普請

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以上に加え、村にくらす百姓が、玉川上水の管理に果たしていた役割を二つほどみておきたい。
一つは、上水両側の植樹である。代官中川八郎左衛門(なかがわはちろうざえもん)の管下にあった万治元~天和二年(一六五八~八二)までのいずれかの時点で、玉川上水と野火止用水通りに、小川村の百姓らが願い出て、松苗を植え付けたようである。しかし、これらの苗木の多くは虫に喰い枯らされてしまい、元禄八年(一六九五)に改めて玉川上水縁に松苗を植え付けている。松苗の植え付けは、名主の小川市郎兵衛(おがわいちろべえ)が請け負っておこなわれた。結局、このとき植え付けによってできた松並木は、明和八年(一七七一)に切り払われ、その後、松が植樹されることはなかった。ただし、喜平橋から新橋までの一里(約四キロ)の区間には、上水の両側に桜が植えられ、寛政六年(一七九四)に古川古松軒(ふるかわこしょうけん)の著した『四神地名録(ししんちめいろく)』で紹介されて以降、桜の名所となった(第三章第三節)。この桜の管理経費の一部を、鈴木新田が負担していた。このように、玉川上水の両縁には、松や桜といった樹木が植えられていたが、百姓らはそれらの植樹と管理に携わっていた。
 今一つは、玉川上水にかかる橋の普請である。一八世紀末~一九世紀初めの寛政期に編さんされた『上水記』によれば、小川村の持場に小川上ノ橋(小川橋ともいう)、作場橋、作場橋、久右衛門橋、鈴木新田の持場内に喜兵衛橋(鈴木新田橋)という、計五本の橋が架橋されていた。表2-24によれば、小平市域の玉川上水には、近世を通じて、六本の橋が架かっていたようであるが、府中橋のように『上水記』の成立する頃にはなくなってしまった橋もあった。
表2-24 玉川上水に架かる橋
橋名持場概要図1図2図3
小川橋小川村玉川上水が開通する承応2年(1653)から小川村の開発に着手した明暦2年(1656)までの間に架橋されたと考えられる。『上水記』に「小川上ノ橋」「小川橋」と記載。
小川寺裏新橋小川村『上水記』に「作場橋」として記載され、同書が成立した寛政期にはあったと考えられる。文政4年の小川村明細帳に「小川寺裏新橋」という呼び名が初見。××
三左衛門橋小川村延宝2年(1674)~元禄13年(1700)の間に架設されたと考えられる。元禄13年の村明細帳に記載される「土橋」の一つ。『上水記』の「作場橋」に該当。×
久右衛門橋小川村享保9~19年(1724~34)の間に架けられたと考えられる。『上水記』にも「久右衛門橋」と記載。××
府中橋小川村鎌倉街道に架けられた橋。玉川上水開通にともなって架設された可能性が高く、承応2年(1653)にはあったと考えらる。明和6年(1769)まで確認できるが、『上水記』に記載はない。×
喜平橋鈴木新田五日市街道に架けられた橋で、鈴木新田持場内にあった。『上水記』にも「喜平橋」とある。玉川上水開通にともなって架けられたと推測される。
*図1は延宝2年頃「(小川村地割図)」(史料集26、p.251)、図2は宝永2~正徳3年「(小川村絵図)」(史料集26、p.254)、図3は寛政11年「(御郡代巡見ニ付村絵図)」(史料集26、p.256)を指す。
*○は記載あり、×は記載なし、-は図1~3の範囲外にあることを示す。
*『小平の歴史を拓く』(下)pp.620-623をもとに作成。

 これらの橋の普請がどう行われたかについて、小川村の持場にあった三左衛門橋(『上水記』では作場橋)を例にみてみよう。この橋は一七世紀後半に架けられたもので、確認できる範囲では、享和三年(一八〇三)・天保九年(一八三八)・嘉永元年(一八四八)・安政三年(一八五六)に架け替えられている。これらのうち、たとえば享和三年には架け替えの費用の金一両と銭四〇〇文を、小川村の全戸二一〇軒で頭割りし、また嘉永元年には、費用の銭二四貫二四四文を各家の所持する畑の面積に応じて割りかけている。こうした方法は、他の橋にも当てはまるものであり、百姓たちは玉川上水に架かる橋の普請を、自分たちで経費を出して行っていた。