村にくらす百姓たちは、玉川上水に取水口を設け、そこから分水路を引いて水を利用していた。小平市域の村に引かれた分水路のようすについては、次項で詳しく述べられるので、この項では、百姓たちがどのような用途で水を利用していたのか、またそれにはどういう変化がみられたのかを記述する。
玉川上水は、江戸城やその城下に飲料水を供給する目的で開削されたものであった。しかし、羽村から四谷大木戸にいたるまでの間、とくに武蔵野に村が開発されていくのにともない、玉川上水にいくつもの分水口が設けられ、そうした村々にも水が供給されていった。とりわけ、一八世紀前半の享保改革の一環として取り組まれた新田開発政策により、武蔵野には多くの村が生まれ、玉川上水に設置された分水口の数も急増した。
『上水記』には、三四か所の分水口が記載されているが、享保改革期に設けられたものは、そのうちの半分ほどになると考えられる。すなわち、享保改革による武蔵野新田開発により、分水口の数は一挙に倍増した。
このことは、小平市域の場合でも同様で、享保期の新田開発にともない、多くの分水路が引かれている。享保期以前は、承応四年(明暦元年・一六五五)に開削された野火止用水と、翌年小川村の開発とともに開削されたとみられる小川分水だけであったのに対し、享保一四年(一七二九)には大沼田新田用水、鈴木新田・野中新田用水、享保一九年(一七三四)には鈴木新田田用水が開削された。
これらはいずれも、玉川上水の北側に分水口が設けられたものであるが、南側にも、享保一七年に、関野新田・廻り田新田・鈴木新田・是政新田・境新田・保谷新田・関前新田・田無新田の都合八か村に引水される関野新田用水、鈴木新田(上鈴木)・野中新田(堀野中)・貫井新田・小金井新田の四か村に引水される鈴木新田用水(南側四か村用水)の開削が許可されたと考えられる。
以上のように、享保期の開発にともない、多くの分水が村々に引かれるようになったことが確かめられる。これらのうち、鈴木新田田用水は灌漑用水であり、ほかは基本的に飲料水を得るために引かれた分水路である。小平市域に限らず、武蔵野では土壌などの条件から水田がさほど作られなかったため、玉川上水から分水を引く村々においては、飲料水としての水利用が主であった。
かくして、享保期の開発以降、羽村にて多摩川から取水した水のうち、江戸にいたるまえに、武蔵野の村々によって使用される水の占める割合が急速に大きくなった。その結果、明和七年(一七七〇)段階では、羽村で取水された水の半分以上が、村々で使用されるという状況になっていた。玉川上水は江戸への水であるというだけでなく、村々の水としての性格を強めつつあったのである。
とはいえ、江戸への水という玉川上水の性格が失われることは決してなかった。多摩川が氾濫して羽村堰(はむらぜき)が破損したり、渇水によって水不足になったりすれば、江戸への送水が優先される一方、玉川上水の各所に設けられた分水口は塞がれて、取水を制限された。そして、一九世紀段階になると、多摩川からの取水量が増やせないこともあって、玉川上水の水不足はいよいよ深刻となり、常時、分水の取水制限が行われるようになった。たとえば、大沼田新田では、文化五年(一八〇八)頃から通常でも「三分明」といって、分水口を三〇%しか開けられなくなっており、当時の玉川上水の水事情の厳しさをうかがうことができる。