水車を仕掛ける

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天明八年(一七八八)、玉川上水の分水を利用する水車がいっせいに調査された。村に分水が引かれたのは、飲料水または灌漑用水としての利用のためであったが、このころには、分水路に多くの水車が設置され、玉川上水から引かれた水は水車を動かすのにも用いられるようになっていた。こうした、分水の本来の目的から外れた水利用により、上水が余分に使用されることを幕府は懸念したのである。
 調査結果を収録した『上水記』によれば、玉川上水からの分水に仕掛けられた水車は三二か所で、うち二か所は休業している。これらのうち、現在の小平市域にあった水車は表2-25のとおりで、小川村と大沼田新田に二か所ずつ、鈴木新田と野中新田に一か所ずつの、計六か所であった。
表2-25 天明8年(1788)時点の水車(現小平市域)
村名持主肩書挽臼杵数設置年堀筋冥加永
鈴木新田仲右衛門百姓18安永7
(1778)
田無村用水250文
野中新田九郎兵衛百姓17安永9
(1780)
鈴木新田・野中新田用水250文
大沼田新田伝兵衛年寄110明和6
(1769)
大沼田新田用水185文
大沼田新田弥左衛門名主16明和6
(1769)
大沼田新田用水55文
小川村弥市年寄18天明2
(1782)
小川村用水200文
小川村弥次郎名主18明和元
(1764)
小川村用水200文
『小平の歴史を拓く』(下)p.639の表をもとに作成。

 これらの水車には、いずれも挽臼(ひきうす)と杵(きね)が付けられており、当地の畑作で収穫された小麦や蕎麦、粟・稗などを杵で搗いて精白(せいはく)(穀類の表皮をとり白くすること)したり、それらを挽いて粉にしたりすることが、ともに行われていたことがわかる。水車を持ち動かしている人びとは、近所の百姓から料金をとって穀物を精白したり、また麦・蕎麦を買い集めて精白・製粉し、できたうどん粉・蕎麦粉を商品として、江戸を中心とする各所に運び、販売したりしていたのである。それにより上がった利益の一部は、営業税にあたる冥加(みょうが)(水車運上)として、毎年幕府に納めなければならなかった。また、水車持主の名前や肩書をみると、天明八年時点で、こうした水車稼ぎを営むことができたのは、開発人や村役人など、ごく一部の有力者に限られていたと考えられる。
図2-49
図2-49 清水水車
新堀用水に仕掛けられた清水水車(昭和9年撮影)。
(庄司徳治氏所蔵)

 冥加の上納からもうかがえるように、水車稼ぎには幕府の許可が必要であったが、このほかにも、いくつかの規制ないし条件があった。たとえば、小川村名主の弥次郎は、小川分水に水車を仕掛ける際、流末を飲料水として利用する小川新田から了解をとり、さらに、小川村が毎年負担している水料金一両の半分(二朱)を同家が負担することを取り決めている。このように、水車稼ぎ人には、ほかの分水利用者に迷惑をかけないための配慮が求められたが、水車の設置によって下流の水量が減少したなどの理由で、双方の間に対立が起こることもあった。
 また、現在の小平市域の辺りは、尾張鷹場に指定されていたため、水車設置には、鷹場領主である尾張藩の許可を必要とした。水車は、稼働するときに大きな音を立てるため、鷹の獲物になる鳥獣の棲み着きに支障が出ると認識されていたからである。
 このように、さまざまな規制のもとで水車稼ぎは営まれたが、一九世紀にかけて水車の数は増加する。一八世紀末以降に調査では、小川村二か所、大沼田新田三か所、野中新田四か所、鈴木新田三か所、廻り田新田一か所、小川新田一か所の計一四か所にのぼる。これらのうち、寛政一〇年(一七九八)に鈴木新田田用水に設置された、定右衛門という者の水車は、ペリー来航後間もない安政元年(一八五四)一二月に、品川の台場警衛にあたっていた松平肥後守容保(まつだいらひごのかみかたもり)(会津藩主)から「火薬製法所」に指定され、翌年から大砲に使う火薬(焔硝合薬)を製造した。しかし、安政二年一〇月に爆発事故が起こり、火薬製造は中止となっている(図2-50)。

図2-50 定右衛門水車の水車小屋・用水堀跡(鈴木遺跡)

 以上のように、分水の取水量が厳しく制約されつつある状況下にあっても、村々では飲料水・灌漑用水にとどまらない、動力源としての水利用が行われ、新たな農村工業が展開していった。