玉川上水通船にいたるまで

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村々での飲料水や灌漑用水にとどまらない水利用は、分水だけでなく、玉川上水にもみられる。それは、物資輸送路としての利用で、玉川上水に船を運航させ、多摩地域の村々と江戸を結び、物資を輸送するというものである。船は馬よりも一度に多くの荷物を運ぶことができるので、陸運よりも輸送経費を削減できる。そのため、多摩地域の産物を江戸でより安く売り、なおかつ江戸からの品物も安く購入できると考えられていた。村々には、馬で他人の荷物を輸送して運賃を稼ぐ駄賃稼ぎで生計を立てる者もいたので、すべての住民が望んだわけではなかったが、こうした玉川上水の通船は、近世において三度ほど計画された。
 一度目は、元文三年(一七三八)に、江戸の町人泉屋平八らによって計画され、それは、玉川上水より一五間(二七メートル)ほど南側に、通船のため新堀の開削しようというものであった。この計画に対しては、鈴木新田のように賛成した村もあったが、新堀周辺の農業に支障が出ること、舟運の開始によって百姓らの従事する駄賃稼ぎが打撃を受けることを理由に、上水沿岸や狭山丘陵南麓の村々が反対したため、実現しなかった。
 二度目は、明和七年(一七七〇)閏六月に、小川東磻(おがわとうはん)が願い出た計画である(第二章第三節)。この計画は、新堀を開削せずに玉川上水を利用し、小川村と四谷大木戸ないしは内藤新宿天竜寺(ないとうしんじゅくてんりゅうじ)近所の間で、幅六~七尺、長六~七間の船二〇艘を往復させようとするもので、一か月で六往復の運航、荷物は一艘につき二五駄を積む予定であった。積載予定品目は、江戸への下り荷物が燃料の炭・薪、米穀類、織物など、江戸からの上り荷物が肥料の米糠、酢・醤油・酒・味噌・塩といった日用品であった。しかし、飲料水である上水を汚染することが懸念されてか、この計画は許可されず、実現しなかった。
 三度目は、慶応三年(一八六七)一〇月に出された、砂川村名主源五右衛門(げんごえもん)による計画である。この計画は玉川上水に、幅四尺、長さ五間半の舟一〇〇艘を、月に六往復運航させるというものであった。積載荷物は一艘につき一〇駄で、通船による物資輸送から上がる利益で運上金一八〇〇両、さらに砂利一三三坪三合を幕府に上納することになっていた。源五右衛門の計画は、ほかならぬ幕府による、上水を利用した、羽村から江戸への砂利輸送計画を前提とし、これに応じたものであったが、幕末の情勢のなかで、ついに実現されることはなかった。