通船の実現と廃止

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しかし、江戸幕府が倒壊してまもない明治二年(一八六九)九月に、砂川村名主源五右衛門は羽村名主源兵衛(げんべえ)と福生村名主半十郎(はんじゅうろう)を加え、再び通船を願い出たところ、許可された。それは、当時玉川上水を管理し、地方からの収入強化を企図していた明治政府と、窮民対策を重視していた東京府が、毎年二八〇〇両を税として納める、また通船実現により輸送経費が削減され、物価も安くなるというこの計画の主張を、受け入れたからだとされる。
 こうして、翌年四月から羽村~内藤新宿間の通船が実現する。往路は流れを下るので、羽村から内藤新宿まで一二時間という行程であったが、復路は流れに逆らうため、船頭一人と船子二人が船を羽村まで、三日かけて引っ張っていかねばならなかった。そのため、水路の幅の狭いところは切り広げられ、低い橋は高く架け替えられ、上水両側には船引き道が敷設された。また、上水の各所には、船を停泊させたり、荷物の積み卸しを行ったりする船溜(ふなだま)りが作られた(図2-51)。現在の小平市域では、小川村・小川新田・廻り田新田・野中新田・鈴木新田の上水沿岸七か所に船溜りがあった(表2-26)。
 

図2-51 喜平橋付近の船溜り
明治3年「玉川上水通船一件」(部分)(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

 
表2-26 船溜り一覧(現小平市域)
名称所在
小川村明神河岸小川橋上南
小川村小川河岸三左衛門橋下南
小川村久保河岸久右衛門橋下北
小川新田三屋河岸喜平橋上北
野中新田喜平橋上南
廻り田新田茜屋橋上北
鈴木新田小金井橋上北

 
 上水を行き来する船の長さは六間(一〇・九メートル)、幅五尺二寸(一・六メートル)。船数は、開始直後こそ六艘であったが、翌明治四年一〇月段階では、一〇四艘と急増し、活況を呈した。船持は二一名で、小平市域にあった村の住人では、小川村の組頭荒井清五郎、小川新田組頭の滝島八左衛門、廻り田新田名主の斉藤忠助、野中新田舟持惣代百姓の小林貞右衛門、鈴木新田惣代百姓鳥塚平八の五名が確認できるが、この五名の多くは、「惣代」の肩書の有無によらず、船持たちの代表者の名前と考えられ、実際の船の所持者はさらに多くなるはずである。彼らの船で東京へ運ばれたのは、砂利・野菜・茶・織物・薪・炭、甲州や信州のぶどう・たばこなどの産物、反対に東京から運ばれて来たのは、米・塩・魚類などの生活物資であった。もっとも、こうした通船は、やはりすべての住民が歓迎したわけではなく、泥や石を投げ込んで通船を妨害する事件も起こっていた。
 以上のように、玉川上水は物資輸送路として利用されるにいたったが、通船事業は上水の水質悪化を理由に、明治五年五月で廃止された。通船が実現したのは、わずか二年一か月というごく短期間であったのである。通船廃止後、船持ちら通船事業にかかわっていた人びとは再興運動を展開していくが、彼らの願いが容れられることはなかった。こののち、多摩地域と東京を結ぶ物資輸送の新たな手段として、鉄道が注目されていくことになるのである。
 

図2-52 玉川上水通船模型(喜平橋付近)
小平市中央図書館2階に展示。