分水口の改正へ

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ここまでみてきたように、村々では、玉川上水や分水の水を、飲料水や灌漑用水としてはもちろん、水車の動力源、さらには通船を通す物資輸送路として利用するようになっていた。それは、江戸・東京への飲料水の供給という玉川上水本来の目的に支障がない限りにおいてではあるが、百姓らの間に、当地に住み着くことはもちろん、より利益をえたり、生活を向上させたりするための上水・分水利用が現れてきたことを示すものにほかならなかった。
 しかし、通船事業が開始されようとしていた明治三年(一八七〇)四月に、東京府土木局により行われた分水口の改正は、それまでの玉川上水と分水のあり方を大きく変えた。この分水口改正は、玉川上水の各所に設けられた分水口を二つに統合するというもので、上流に大きな分水口を二つ設け、玉川上水と平行に多量の水を流せる分水路を、南北に一本ずつ開削した。北が新堀用水、南が砂川用水で、村々はこれらの新しい分水路から水を引くこととなった。かかる措置の目的は、村々が隠れて規定以上の水を引くことを防止し、東京への送水量を維持・確保することにあった。こうして、近世以来の玉川上水からの分水方法は変更され、村での水利用に対する管理が強化されたのである。