ここでは、玉川上水から引かれる分水に着目し、村々に引かれる分水路のようすや水利用のあり方を中心に、村と分水の関係をくわしくみていく。とくに、当時の分水やその利用に関する記録が比較的残されている小川村、小川新田、大沼田新田、鈴木新田、廻り田新田の五か村をとりあげることとする。
まず、小川村であるが、同村は明暦二年(一六五六)に小川九郎兵衛(おがわくろべえ)の主導により開発された。小川村の辺りは、地下水位が低く、生活に不可欠な飲料水の入手が困難であったため、開発許可とほぼ同時に、玉川上水から入村者に飲料水を供給するための分水開削を許可されたと考えられる。そこで、九郎兵衛は私費を投じて分水路を開削し、村に人が住める条件を整えた。これが小川分水であり、延宝二年(一六七四)頃の小川村地割図に描かれるように、現在の東小川橋付近から取水し、二筋に分かれて村中央部を流れ、青梅街道沿いに並ぶ各家に飲料水を供給した(第一章第一節)。