水料金の負担

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玉川上水から分水を引く村は、飲料水については水料金、灌漑用水については水料米が徴収された。小川分水は飲料水として用いられるので、水料金が課された。水料金は分水口一か所につき金一両であったため、小川村の百姓たちは毎年金一両を皆で出しあっていた。このことは、人口や家数など小川村の概況を記した村明細帳(むらめいさいちょう)でも記載され、たとえば享保一九年(一七三四)のものには、水料金一両を毎年、玉川上水の開削者で、当時上水の管理を幕府から請け負っていた玉川兄弟に支払っているとある。
 小川村の玉川上水からの取水に対し、負担を課そうとする動きは宝永元年を起点とし、このとき玉川清右衛門・庄右衛門は、百姓一軒につき米二升の「水役米(みずやくまい)」を小川村に申し付けている(史料集二八、三頁)。これに対し、名主の小川政右衛門(まさえもん)は、当村の百姓らの生活がいまだ不安定であることなどを理由に異議を申し立てたが、結局、正徳四年(一七一四)までには、毎年金一両の水料金が課されている。以降、水料金は玉川兄弟や幕府の上水所管部局に納められるが、一八世紀前半の享保期に開発された武蔵野新田は、玉川上水から分水を引いても水料金が免除されていた。そのため、小平市域にあった村で水料金を負担していたのは小川村だけであり、このことは、小川村における水利用の特徴の一つといえる。