同新田にいたるまでは、原則として、どこにも利用されなかったが、一九世紀段階では、用水沿いの村の地先に、堀浚いのときに使用する土揚場(土砂置場)が設けられ、一〇年に一度ほど、そこの雑木や芝草の刈り取りが命じられていた。また、天保年間(一八三〇~四三)頃とみられるが、野火止新田を支配する高崎藩の家臣たちから小川小太夫に、野火止用水のことでもろもろ世話になっているとして、中元や寒中見舞の金・塩引鮭が、毎年届けられている。詳しい内容は不明であるが、このことからも、小川村が野火止用水の維持・管理にかかわっていたことがうかがえる。
図2-55 現在の野火止用水(九道の辻公園付近)
(平成24年7月撮影)