小川村と野火止用水

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小川村とかかわりのある玉川上水からの分水として、野火止用水(のびどめようすい)にも触れておく。野火止用水は、承応四年(明暦元年・一六五五)二月に川越藩主松平信綱が家臣安松金右衛門を奉行として開削に着手し、翌年三月に完成した、玉川上水からの分水路である。延宝二年(一六七四)小川村地割図でも描かれているが、この用水は小川村西端で玉川上水から取水し、北端の地境を北東に流れてゆき、野火止新田(現埼玉県新座市)に飲料水を供給した。
 同新田にいたるまでは、原則として、どこにも利用されなかったが、一九世紀段階では、用水沿いの村の地先に、堀浚いのときに使用する土揚場(土砂置場)が設けられ、一〇年に一度ほど、そこの雑木や芝草の刈り取りが命じられていた。また、天保年間(一八三〇~四三)頃とみられるが、野火止新田を支配する高崎藩の家臣たちから小川小太夫に、野火止用水のことでもろもろ世話になっているとして、中元や寒中見舞の金・塩引鮭が、毎年届けられている。詳しい内容は不明であるが、このことからも、小川村が野火止用水の維持・管理にかかわっていたことがうかがえる。

図2-55 現在の野火止用水(九道の辻公園付近)
(平成24年7月撮影)