山家の前面の玉川上水縁には、明治一一年(一八七八)段階で、この水汲み場が一六か所あったが(図2-56)、同年に東京府から水汲み場を全て埋め立てるよう指示された。これに対し、小川新田は、五か所だけ据え置いてほしいと東京府へ願い出ることにした。その際の関連文書のなかに、山家に住む者は「往古より上水汲み取り遣い来たり候処」、つまり、昔から玉川上水で水を汲み使用してきた、という記載がある(史料集二三、八九頁)。この願いは容れられたが、その代わりに課された、上水の使用料と見られる「水賦金」(毎年一円ずつ)の負担が重かったため、明治一四年に、五か所の水汲み場の利用者らは、その廃止を願い出た(史料集二三、九二頁)。こうして山家の水汲み場は全て廃止され、当地区の住民は皆、新堀用水(しんぼりようすい)から水を汲むことになった。
図2-56 小川新田水汲み場
明治11年9月「水汲場据置願」(史料集23、p.92)の図を転載。
以上のように、小川新田の山家に住む百姓たちが分水を引かずに、水汲み場を設けて、玉川上水から直接水を汲み上げていたことは、近世に遡るとみてよいだろう。したがって、近世の小川新田の百姓たちが利用した水は、村明細帳に記された小川分水と、上水縁の水汲み場の二つによって供給されたものと考えられる。なお、水汲み場は小川新田だけにあったものではなく、やはり玉川上水に面した廻り田新田でも確認できる。