廻り田新田を流れる分水

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廻り田新田は、ほかの新田と違い、自村のために引かれた分水はない。というのも、廻り田新田は享保の新田開発のなかでも、開発の着手が遅かった村であり、享保一〇~一二年(一七二五~二七)にかけて、廻り田村(現東村山市)の斉藤忠兵衛(さいとうちゅうべえ)らが中心となって、すでに野中新田として地割りされていた玉川上水北側の土地を取得してひらかれた新田であった(第一章第二節6)。しかも、開発された目的は秣場(まぐさば)の確保だったため、廻り田新田に土地を割り付けられた廻り田村の百姓たちのなかでも、実際に新田に移住してくる者は皆無であり、元文検地を受けた段階でも、屋敷地は一軒もなかった。
 一方で、廻り田新田は玉川上水と接していたため、廻り田新田内には五筋もの、他村のために引かれた用水が流れていた(前掲図1-48)。以下、各用水の引かれた経緯を確認しておきたい。
①大沼田新田(野中新田)用水
 小川新田山家に取水口があり、廻り田新田の北側を斜めに横断し、途中で二筋に分岐する(もう一つの分岐先は②鈴木新田用水堀)。この分水は、享保一四年に開削され、鈴木新田・野中新田善左衛門組を経由して大沼田新田にいたる。流路も長く、使用する村も多かったため、宝暦一〇年(一七六〇)に別堀が開削されている。ただし、この分水沿いには、廻り田新田の百姓の屋敷は建てられていない。

②鈴木新田(野中新田)用水
 途中まで大沼田新田(野中新田)用水と同じ用水であり、廻り田新田地内で分岐し、さらにその先で大沼田新田・野中新田・鈴木新田へ向けて分岐している。開削された年代については、『上水記』には享保一三年とあるが、途中まで①と同じ水路であることからも、享保一四年に開削されたと考えられる。この分水沿いには、廻り田新田北端の地域に、文右衛門と乙右衛門(おとえもん)の二軒の屋敷が建てられている。文右衛門が廻り田新田の出百姓となったのは宝暦元年(一七五一)であり、乙右衛門は明和五年(一七六八)である。

③田無村用水
 『上水記』によれば、元禄九年(一六九六)に、まだ武蔵野だった喜平橋最寄りの場所(のちの小川新田山家)から田無村のために開削された分水で、廻り田新田の分水のなかでも最も古い分水である。分水口からは、分水に沿って田無村まで田無村道(現鈴木街道)も通っていた。廻り田新田の開発に奔走した斉藤家の屋敷は、この田無村用水に沿って建てられ、のちには、道をはさんで斉藤家が自家の持ち地内に勧請した鎮守氷川明神(ひかわみょうじん)も、田無村用水・田無村道に沿って建てられている。

④鈴木新田田用水
 『上水記』によれば、享保一九年に開削されている。「田用水」とあるように、鈴木新田の中央、鈴木街道の南側に広がる鈴木新田の田場のために引かれた分水である。取水口は小川新田山家の東端にあたり、廻り田新田の南西の角から、廻り田新田を斜めに横断している。この分水沿いに、斉藤家と用水堀をはさんで向かい合うように屋敷を構えるのが、斉藤家とともに開発運動を行い、組頭家となる山田庄兵衛(やまだしょうべえ)家である。山田家は、寛保元年(一七四一)に、元文検地において斉藤家が割り付けられた土地を譲られて新田に移住してきた最初の家である。この分水沿いの少し先には、山田家と同じ寛保元年に新田に移住してきた大舘平左衛門(おおだちへいざえもん)家も屋敷を構えており、斉藤家とあわせて、廻り田新田の南西端、田無村用水と鈴木新田田用水を利用できる場所が、廻り田新田のはじまりの場所だったことが分かる。その後、山田家と大舘家の屋敷の間に斉藤家・山田家の分家など三軒の屋敷が並び、この分水沿いには計五軒の屋敷が並ぶことになる。

⑤関野新田用水
 唯一廻り田新田地内に分水口のある分水で、関野新田(せきのしんでん)・廻り田新田・鈴木新田・是政新田(これまさしんでん)・境新田(さかいしんでん)・保谷新田(ほうやしんでん)・関前新田(せきまえしんでん)・田無新田の八か新田がこの分水を利用している。この分水は享保一七年に開削され、廻り田新田の南端を東に向かって流れている。この分水沿いには六軒が屋敷を構えているが、鈴木新田田用水沿いの屋敷が廻り田道(当時は野道)沿いに建てられているのに対し、関野新田用水沿いの屋敷は、五日市街道に沿って建てられている。

 以上のように廻り田新田を流れる玉川上水の分水は、すべて享保一九年までに開削されている。元文検地でも、屋敷地はないが、用水堀については「外二間三尺 用水堀」などとして、すべての分水が記載されている。享保期の開発段階で、廻り田村の土地所持者と、分水によって用益をえることになる村々とがどのような関係にあったのかは、関連史料がなく不明である。享保期の用水開削が、すべて「御入用を以て」「御入用御普請」と、御入用=幕府の経費で開削されており、大岡支配役人による新田への救恤策・インフラ整備の一環として用水の整備がなされていることから、廻り田新田にも出百姓があった場合には、これらの分水から取水することを前提に、代官が利害を調整するかたちで各分水が引かれたと考えておきたい。廻り田新田にはじめて出百姓があるのは寛保元年のことであり(ただし、斉藤家が出百姓となった年代は不明だが、これよりも早いかもしれない)、出百姓が新田に移住してくるよりも前に、廻り田新田地内には他村のための分水が流れていたのである。そして、その後、新田にやってきた出百姓たちは、自家の持ち地の中を流れる分水に沿って、屋敷を構えていったのである。