廻り田新田での水利用について、宝暦九年の村明細帳によれば、「用水御上水(ようすいおんじょうすい)の分水(ぶんすい)にて呑水(のみみず)に仕(つかまつ)り候」と、分水沿いの屋敷が分水から取水して飲み水にしていたことが記されている(東村山市小町家文書)。このほか、明治初年の記録ではあるが、「分水元堀筋より汲取日用呑水相用い候」という記録もあり(史料集二三、二九九頁)、さきにみた小川新田の水汲み場と同じように、玉川上水に面した村々では、玉川上水から直接水を汲んで利用することがあった。
廻り田新田の生活用水以外の水利用として特徴的なのは、水車と畑田成である。廻り田新田では、二か所で畑が田に変更されている(畑田成)。一か所は鈴木新田田用水流域の地域で、遅くとも天保八年(一八三七)には、山田庄兵衛ほか計五家が、七筆計三反五畝を田として開発している(図2-57)。もう一か所は田無村用水沿の地域で、斉藤家の持地のうち二反一五歩の場所が、「地窪の場所故降雨の節は水溜まり吐き方これ無く」と、窪地になっていて、降雨の際には水が溜まってしまい水が流れていくさきがないため、畑作には不向きな場所だったので、この溢(あふ)れ水を利用して田にすれば収穫量も上がるのではないかと考え、流末の田無村の了解も取り付け、斉藤忠兵衛が畑にしたうえで、七兵衛(しちべえ)・弥兵衛(やへえ)の持田としたという(史料集二五、二九六頁)。天保一四年には幕府勘定所の長山孝之助(ながやまこうのすけ)が検見を行い、正式に田として年貢を納めることになった。しかし、嘉永六年(一八五三)に入り、流末の田無村から、飲み水に支障をきたしているとの訴えがあったため、畑に戻そうとしたが、幕府からは、いったん田にした以上、畑に戻しても年貢は田として賦課すると告げられる。田畑にくらべ、年貢額は比較にならないほど高額なため、田無村と廻り田新田は再び相談し、田はそのままで据え置くことに決する。
図2-57 廻り田新田の田場 天保8年11月「廻り田新田忠兵衛地先鈴木新田引取分水口(絵図)」 (史料集25、p271)の図を転載。 |
水車は、斉藤家の持地を流れる田無村用水に沿って、寛政一一年(一七九九)に建てられる。当時水車は、小麦を粉に挽(ひ)くために用いられたため、畑作地帯の小平市域では、生産力の不足を商品価値を高めて補うために必須の施設だった。この水車は、のちの記録では「我等親庄兵衛(しょうべえ)一ヶ月に一〇日ずつ所持致し両家にて稼ぎ致し」とあるように、斉藤家・山田家で共同利用されていたようである(史料集二六、四七頁)
このように、廻り田新田は戸数も少なく、開発された耕作地も狭いため、田や水車による生産力や収入の増加は大きな意味を持った。斉藤家・山田家を筆頭に、玉川上水の積極利用が模索されたのである。