図2-58 鈴木新田の悪水堀
「(水車場所絵図)」(史料集26、p125)より。
この悪水堀の周辺に「田場」が広がり、この田場を囲むように、「田用水」が流れていた。田用水は廻り田新田地先からの分水によるもので、流末までおよそ三〇町ほど(約三・三キロメートル)あった(史料集二五、二七二頁)。図2-58では、田用水沿いに水車小屋が二か所あり、「定右衛門水車」「清次郎水車」が描かれている。また天保八年(一八三七)一一月の絵図には、三か所の水車が記されている。
元文検地によって定められた鈴木新田の田は、下田二町四反三畝一二歩であった(第一章第二節3)。しかし、安永三年(一七七四)三月の村明細帳によれば、下田二町四反余のうち、五反歩は米納であるものの、残り一町九反余は「畑成」とされ、永納となっていた(史料集一、一二五頁)。検地で定められた田場であるが、実際には、米の生産はそれほどうまくはいかなかったのであろう。
なお、田場の地割は畑などにくらべて細かく設定されている。天保八年一一月の絵図によれば、一反歩前後であったり、三畝歩ほどであったりと、田以外の地目にくらべて面積は小さい。田用水に沿って設定されたこの田場は東西に伸びていたため、同じく東西に並んでいた各百姓の名請地ごとに、若干ながら田場が存在していたのである。明治期に作成された地籍図からも、田は細かな区画で設定されていることがわかる(図2-59)。
図2-59 明治の地籍図
図の中央が田で、その南北の地割が畑である。明治期「(旧々公図)」(小平市中央図書館所蔵)
悪水堀や田用水は鈴木新田のみではなく、大沼田新田にも流れていた。大沼田新田の悪水堀や田用水は、伝兵衛の地内、伝兵衛水車を通る流路である。周辺の土地よりも低く、水がたまりやすい地形であった。そのために、悪水堀の周辺には田場が設定され、わずかながらも田を造成し、稲を生育するための土地としていたのである。