大沼田新田の三つの分水

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大沼田新田には「悪水堀」「田用水」をふくめ、三つの分水路が通っていた。享保二一年(元文元年・一七三六)三月作成の「大岱新田地割絵図」には(第一章第二節5)、すでに三つの分水路が描かれており、入村百姓が定着しつつあった享保・元文期には、村の分水路はある程度定まっていたことがわかる。
 この絵図は三つの分水路を、a「小川より分水堀」、b「田用ノ水」、c「悪水堀」と記している。aは小川新田からの分水である。村の南側から北へ流れ、江戸街道に沿って西へ、さらに北へ曲がってから東へと向かい、名主弥左衛門の地内を通る。そして村の北東、「裏通り」と呼ばれる地域を抜けていく分水路である(本章第一節2・第七節4)。bも村の南側から北へ入り、東へ向かい、再び北へ流れて江戸街道を抜け、さらに西へ流れて、半次郎(伝兵衛)の地内へと流れ込んでいる。cは、村の東から流れてくる分水路で、半次郎の地内や江戸街道を抜けていく流路である。また、天保一〇年(一八三九)三月に普請奉行の見分の心得として描かれた図によれば、aにつながる分水は「大沼田新田上分呑水」、bは「大沼田下分の(野)中組合引取」、cは「田用水」と記されている(図2-60①②)。なおaは、江戸街道付近でさらに分水し、「伝兵衛水車」へと流れている(後掲図2-63)。伝兵衛の地内は、abcすべての合流点となっている。

図2-60① 「大沼田新田上分呑水」と「大沼田新田下分の(野)中組合引取」
全体は後掲図2-63を参照。


図2-60② 大沼田新田の「田用水」
全体は後掲図2-63を参照。