aは享保二一年(元文元年・一七三六)の絵図では「小川より分水堀」とあり、もとは小川新田からの分水を引き、飲み水としていた。しかし大沼田新田では、これだけでは水が足りず、別の分水路を求めていた。これが「采女堀(うねめほり)」とよばれた堀筋である。玉川上水から鈴木新田や野中新田へ流れる分水を、さらに分けることになったため、安永四年(一七七五)以降、これらの村々を巻き込んで争論になっている(本章第七節2)。「采女堀」は図2-60①のa「大沼田新田上分呑水」とある、南北の流路にあたると考えられる。ここに「埋樋(うめひ・うめとい)」とあるのは、争論の結果、采女堀を埋樋にしたためということになろう。