分水口を利用する村と普請

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各分水は周辺の村との組合呑水でもあったため、村々が共同して普請を行っていた。分水の起点である玉川上水の分水口埋樋七か所と掛渡井二か所の普請を行っていたのが、鈴木新田・野中新田・大沼田新田と、関野新田・梶野新田・下小金井新田(以上、現小金井市)である。玉川上水の小川新田地内から下小金井新田の地内までの分水樋口の普請は、この六か村によって行われた。この間には喜兵衛橋・貫井橋・小金井橋があり、これらの橋は村の自普請によって行われた。天保九年(一八三八)一〇月に作成された分水口の樋口の絵図が図2-61である。

図2-61 分水口図
天保9年10月「(玉川御上水分水絵図面)」(史料集24、p.74)

 分水口と埋樋(地中に埋めた送水のための管)と掛渡井(地上にかけ渡した送水のための管)の普請は、享保期から明和六年(一七六九)までは、御普請(ごふしん)によって行われたため、普請のための材料や手間賃などは幕府から支給された。村からは竹・縄・俵などを出していた。ところが安永七年(一七七八)、普請は自普請とされた。このとき、幕府からは四四両二分余が下げ渡されて、実際の伏替入用金二二両二分余の残金二二両が、一割の利足による貸付金とされた。残金二二両を、貸付役所預りの貸付金にすることによって利足を増やし、一〇年目になれば、利足によって普請を行うことができるというしくみである。伏替は一〇年ごとであった。
 しかし普請にかかる費用は、計画内にはおさまらなかった。享和元年(一八〇一)には、物価高騰などの影響によって、前回の普請である天明八年(一七八八)よりも費用がかかりそうであるとして、普請料金拝借願いを提出している。また役所では貸付金の利足一割を、八分に引き下げようとする動きがあったため、文政五年(一八二二)、鈴木新田・野中新田両組・関野新田・梶野新田・下小金井村・同新田・大沼田新田の七か村は、「利下ヶ御免」、すなわち利下げに反対という意思を示し、その旨の願書を提出している(史料集二四、一八頁)。普請費用がかさむ一方であるにもかかわらず、利足が引き下げられ、村にもたらされる普請費用が少なくなれば、十分な普請が困難となるのである。しかし天保一五年(弘化元年)の史料には「年八分利足」と記されており、結局、八分への利下げは実行されたのであった(史料集二四、八三頁)。さらに幕府は、天保一四年五月、馬喰町にあった貸付方の改革を行った。馬喰町御用屋敷の代官が取り扱う貸付金について、貸付高の半分を「棄捐(きえん)」、すなわち帳消しとし、残りの半分を無利足年賦としたのである。村々では早速「割合帳」を作成した(史料集二四、八三頁)。この改革によって、村々へは、一年に金四三両二分余を五年間、幕府からくだされることになった。さらに幕府からは「自普請手当」を計画するように命じられた。村々が相談した結果、他村への質地を請け戻して、「自普請手当地」として村持ちとし、年々、作徳を積み立てて対応することになったという(史料集二四、八五頁)。普請費用は思うようにはえられず、村ではその費用を捻出するために、さまざまな方策を考えなければならなかったのである。