分水口普請のようす

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普請実施の年、村々には代官から拝借金がくだされた。拝借金は分水口ごとに割り当てられたが、「鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水」の分水口の拝借金は鈴木新田が受け取るなど、各分水口で拝借金を受け取る村は決まっていた(表2-27)。天保八年(一八三七)三月の受取金は合計六四両余であるなど、自普請となった当初の入用金二二両からくらべて、かなり費用がかかっていることがわかる。
表2-27 分水口普請村々受取費用
分水費用を受け取る村文政11年
(1828)1月
天保8年
(1837)2月
天保8年
(1837)3月
埋樋鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田組合呑水鈴木新田永3貫858文1分永3貫858文1分永6貫163文4分
大沼田新田 呑水・田用水梶野新田・
大沼田新田
永17貫121文6分永17貫121文6分永16貫371文6分
梶野新田 呑水
鈴木新田・野中新田組合呑水野中新田両組永9貫593文5分永8貫816文5分
/内金5両
永8貫816文5分
鈴木新田 田用水鈴木新田永6貫248文6分永6貫248文6分永6貫962文7分
関野新田 呑水関野新田・
下小金井新田
永12貫577文8分永14貫102文2分・
永12貫577文8分
/内金8両
永14貫102文2分
下小金井新田 呑水
掛渡井(1)鈴木新田・野中新田・貫井新田・下小金井新田 呑水鈴木新田永3貫950文9分永3貫950文9分永4貫407文1分
(2)貫井新田・
下小金井新田呑水
鈴木新田永5貫631文4分永5貫631文4分永7貫438文4分
(目論見金高のうち35両)合金64両1分
 永11文9分
文政11年1月・天保8年2月・天保8年3月「奉請取候金子之事」(史料集24、p.55・62・64)より作成。

 また、「大沼田新田呑水・田用水」の分水口と「梶野新田呑水」の分水口は、離れた場所の別の分水口であるが、寸法が同一であったためか、普請費用は一括で下げ渡されていた。そのため、普請の目論見帳なども共に作成されていた。文政二年(一八一九)・文政一〇年・天保八年の大沼田新田と梶野新田の樋口伏替で要した材料や人足を一覧にしたものが表2-28である。
表2-28 普請人足
 文政2年(1819)3月文政10年(1827)12月天保8年(1837)2月
大工28人6分40人6分40人6分
鳶人足14人9分1厘21人8分21人8分
外村役115人樋堀割埋立足土持込築堅共一式38人126人樋堀割埋立足土持込築堅共一式38人126人樋堀割埋立足土持込築堅共一式38人
仮〆切仕立取払共一式32人仮〆切仕立取払共一式32人仮〆切仕立取払共一式32人
大工手伝諸色持送り遣29人大工手伝諸色持運遣41人大工手伝諸色持運ニ遣41人
番人足古木片付共16人番人足古木取かた付ニ遣15人番人足古木取片付ニ遣15人
文政2年3月「樋口伏替御目論控帳」(史料集24、p.44)、文政10年12月「埋樋伏替仕様帳」(史料集24、p.52)、天保8年2月「玉川御上水通分水埋樋掛渡井自普請出来形帳樋口伏替仕様帳」(史料集24、p.58)より作成。

 人足については、文政二年には大工二八人余、鳶人足一四人余、このほか村役の人足として一一五人がかかっている。大工の手伝いや古木の片付けなどがその仕事であった。天保八年も同様で、この年も村役の人足として一二六人が動員されたようである。また大沼田新田には、嘉永五年の普請の際の入用覚帳が残されているが、普請実施にあたっては、普請役人のご機嫌伺いをしたり、砂川村(現立川市)まで馬を借りたり、砂利や竹縄、足場の丸太を準備するなど、事前の準備にも時間や費用がかかっていた(史料集二四、九一頁)。分水にかかわる普請は費用の工面や材料、人足の調達、すべてにおいて、大きな負担となっていたのである。