争論が起こる前

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明和五年(一七六八)七月のことであった。小川新田にある熊野宮の神主采女(うねめ)から、大沼田新田の名主伝兵衛に証文が出された。その内容はおおよそつぎのようなものであった。小川新田のうち采女方から「下(しも)」の百姓と、大沼田新田の伝兵衛方から「上(かみ)」の百姓が飲み水不足で困っている。そのため鈴木新田・野中新田・大沼田新田堀が通る、采女の所持地の端から、新堀を仕立てて彼らの飲み水にしたい。通常、水がたくさんあるときはこの堀から水を引くが、もし濁水などになったら、新しい堀口はふさぐ。また勝手に田を仕立てたり、畑の畦や山野へ水を引いたりなどは決してしない。堀筋は年貢地になっているが、采女方で勝手に仕立てた堀筋なので、今後、年貢はもちろん、堀浚(ほりさら)いの時も伝兵衛に人足を差し出すようにはいわない。これが采女と伝兵衛の間で交わされた約束であり、この内容が太田代官へも提出された(史料集二五、一七九頁)。
 大沼田新田は、伝兵衛の屋敷からみた分水の流れによって、「上分(かみぶん)」と「下分(しもぶん)」に、分水を利用する百姓が分かれていた。明和五年以前は、下分は鈴木新田・野中新田の飲み水分水から水を引いており、上分は小川新田の残水を使用していた。「残水」と表現されているように、水量は十分ではなかったのだろう。そこで伝兵衛は、小川新田の采女を頼り、その所持地内を流れていた鈴木新田と野中新田の飲み水分水から新たに堀を作って、「上分」に流し込むことにしたのである。