安永期の采女堀争論

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新しい堀に不都合があれば堀口はふさぐ、という約束であったにもかかわらず、安永四年(一七七五)一二月、鈴木新田名主茂八代理の利左衛門や野中新田名主藤右衛門らが、代官伊奈半左衛門役所に訴状を提出した。その内容は以下の通りであった。鈴木新田・野中新田の飲み水は小川新田地内から分水してきたが、大沼田新田名主弥十郎と近所の一二~三軒の飲み水は、小川新田の残水を汲んでいた。しかし名主伝兵衛と弥十郎は、七年前(明和五年)に、我々の「呑水堀」の水上にあたる、小川新田弥藤治(采女)地内から新規に溝を掘って水を引き入れていた。両者に糺したところ、これまでの堀が埋まって浚うことができず、一二~三軒ほどに対する水量なので、少しの間だけ引かせてほしい、古堀を浚ったら埋め立てるというので、問題がないうちはそのままにしていた。その後、問題が起こったということであろう。訴状に欠落部分があるため詳細は不明であるが、いずれにせよ、堀筋に障りが出たために鈴木新田と野中新田が訴えを起こしたのである(史料集二五、一八〇頁)。采女はさらに、屋敷地内に幅五~六尺で「押廻」した新堀をつくり、水車まで立てていた(史料集二五、一八六頁)。

図2-63 大沼田新田への分水を描いた図
点線枠で示した分水に「大沼田新田上分呑水」とある。前掲図2-60①が拡大図。
天保10年3月「(村絵図)」(史料集26、p.262)

 鈴木新田や野中新田は、采女の行為が、かつて伝兵衛と交わしていた約束とは異なっているといい、そして弥十郎が采女と馴れ合っていると主張した。安永四年末、役所から内済案が出されるも、伝兵衛側であった大沼田新田下分の百姓は、これに承知しなかった。彼らは「一村の百姓上下二割れに相成り、困窮の百姓難儀存じ奉り候」、すなわち、大沼田新田の百姓が弥十郎の上分と伝兵衛の下分の二つに分かれてしまい、貧しい百姓たちは苦労すると主張している(史料集二五、一八四頁)。
 伝兵衛側は、弥十郎の話には偽りがあり、上分の一三軒は二か所の井戸の費用を役所から貰っており、飲み水不足はなかったはずだが、水車をかけたためにかえって水不足になったと主張した。その後も数度にわたって、訴状や返答書が作成、提出されている。