争論一旦解決

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弥十郎は、村が水不足であったため一八年前に役所へ願い、小川新田地内の新堀を許可されたものの、困窮のため普請ができなかったこと、また一〇年前に相談して采女地内に仮堀を掘ったのであり、分水として切り広げたわけではない、と主張していた。これに対して藤蔵(伝兵衛)は、新堀の堀口を広げて水車を立てたために、飲み水が不足したと主張した。役所で吟味をしたが裁決しがたかったので、普請役の松井官兵衛・門奈道右衛門が糺明を担当した。そして安永六年(一七七七)四月二七日、ついに裁許がくだされた。裁許の内容は以下の通りであった(史料集二五、一九七頁)。
①采女・弥十郎が馴れ合って分水口を切り広げたという話については、堀幅の定めもないことで、訴訟方の言い分は取り上げられない。
②代官伊奈半左衛門へ願った別堀には支障がある。一八年間そのままにして、一〇年も采女地内の堀筋から飲み水を引いていたのであれば、「仮堀である」という弥十郎の言い分も信用できない。また采女が仕掛けた水車はすぐに止めたのであれば、いまさら障りがあるとのいわれはない。

続けてつぎのように申し渡された。
①一〇年以来引いてきた采女地内の分水口は、玉川分水樋の四分の一の分量とすれば、優劣はないであろう。分水口から水を引いている者は相談のうえ、自普請によって水口に長一間半・高四寸・横五寸の「箱樋(はこどい)」を伏せ、これまで通り、相互に飲み水を引くように。
②采女屋敷内に回している堀は埋め立てるように。