再論となる

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裁許が出されたにもかかわらず、弥十郎らはこれにしたがわなかった。裁許から二か月後の六月、指示されていた「箱樋」の伏せ込みをしていなかったとして、野中新田・鈴木新田そして大沼田新田下分百姓は再び訴状を提出した。再び江戸での吟味となり、采女らは裁許を守ると答えたが、弥十郎一人は受け入れられないとした。そして安永六年(一七七七)から安永八年までの三年の間に、代官伊奈半左衛門家来飯塚伊兵衛の手代が遣わされることになり、その指示を受けることになった。
 三年後の安永八年八月には、大沼田新田のうち二七名が、さらなる訴えを起こすことで同意していた。翌安永九年三月、野中新田・鈴木新田・大沼田新田・小川新田の村役人は、地改めの吟味を受けるにあたって、手代衆の指図にそむかないこと、手代や小者に賄賂を出したりしないことを約束した証文を提出した。その後、地改めの吟味が行われたのであろう。
 一方、弥十郎は八月に上分と下分の圦樋(いりひ)(樋口)を一つにしたいとして、書面を書き替えた。これに驚いた下分の百姓たちは、水は下分の飲み水だけではなく、田用水でもあり、「下分圦樋」のことばを書き替えないでほしい、という願書を提出している(史料集二五、二〇六頁)。裁許の直前、それぞれが細部の根回しをおこなっていたのだろうか。