再び裁許へ

504 ~ 505 / 868ページ
八月、争論に対して、奉行所から再び裁許がくだされた。地改めの結果、上分百姓の七兵衛屋敷前に不用な捨水があるのでこれを留めること、采女堀は上分百姓が修繕して、これまで通り小川新田の残水も引き、水漏れがないようにすること、そして四月二七日の裁許の通りにして、再度の訴訟は起こさないように、との内容であった。
 この争論は、大沼田新田の下分(年寄伝兵衛側)と上分(名主弥左衛門側)の対立をもたらしたものであった。安永期は、弥十郎が本村である大岱村(現東村山市)から大沼田新田に入村した頃であったが(第一章第二節5)、争論は、村の相名主(あいなぬし)、弥十郎と伝兵衛の対立の様相もみせていたのである。争論は足かけ六年にわたり、代官手代による実地見分によってようやく裁許がくだされたのである。
表2-29 采女堀争論の経過
明和5年
(1768)
7月小川新田采女と大沼新田名主伝兵衛、鈴木新田・野中新田・大沼田新田堀から、新堀(采女堀)を引くことを約束
安永4年
(1775)
12月鈴木新田・野中新田村役人が、采女堀の溝に支障があるとして代官へ訴える
閏12月役所から、新堀をつぶし玉川上水口から改めて新堀を作るという内済案が出されるが、大沼田新田下分百姓(伝兵衛をふくむ)は不承知
安永5年
(1776)
1月大沼田新田内で意見確認が行われる
2月鈴木新田・野中新田村役人、采女堀に水車を仕立てたことで、采女と弥十郎を訴える
弥十郎・采女が返答書を提出
6月伝兵衛忰藤蔵が、新堀口を広げて水車を立てたため上分の飲み水が不足したとして、奉行所へ願書を提出
11月大沼田新田伝兵衛養子藤蔵ほか下分百姓、訴訟の惣代などについて申し上げ、松井官兵衛・門奈道右衛門からの質問についての返答などが行われる
大沼田新田弥十郎、松井官兵衛・門奈道右衛門からの質問について返答
安永6年
(1777)
4月27日奉行所から、采女堀は箱樋とし、采女屋敷の堀は埋め立てるよう裁許が出される
6月鈴木新田・野中新田・大沼田新田下分百姓が再訴、采女らは裁許を守るとするが、弥十郎は受け入れず
9月鈴木新田・野中新田・大沼田新田下分百姓、願書を奉行所に提出
9月18日伊奈半左衛門家来飯塚伊兵衛手代を3年の間に派遣され、指図を受けることになる
安永8年
(1779)
8月3年目になったことから、大沼田新田27名が訴えを起こすことを寄合にて同意
安永9年
(1780)
3月17日鈴木新田・野中新田・大沼田新田・小川新田の村役人、地改め吟味にあたっての約束を取り交わす
8月16日弥十郎が上分と下分の圦樋を一つにしたいとして書面を書き替えるが、下分百姓は書き替えはやめて欲しいという願書を提出
8月19日奉行所から、不用な捨水を留めること、采女堀へはこれまで通り小川新田の残水も引き水漏れがないようにすること、安永6年4月27日の裁許通りとして、再度の訴訟は起こさないようにとの裁許が出される
*安永期の采女堀争論関係史料(史料集25、p.179-208)から作成。
*争論のおおまかな経過を示したため、関係史料すべての内容を掲載したものではない。