争論に際しての村入用

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采女堀争論のように、村全体にかかわる争論に必要な費用は、「村入用(むらにゅうよう)」として百姓に割り付けられた。争論が起こった安永四年(一七七五)一二月、大沼田新田の文右衛門以下三〇名の百姓が、出入のため「江戸詰(えどづめ)」になった名主弥十郎に対して、その費用を差し出している(史料集二五、一八一頁)。三一名の百姓は、弥左衛門をふくんだ大沼田新田の上分の百姓であろう。
 一方、安永九年一〇月には、伝兵衛をふくむ下分の百姓、一四名の「水論入用勘定帳」が作成された(史料集二五、二〇八頁)。この勘定帳の内訳、合計を示したものが表2-30である。入用の費目の詳細は不明であるが、代官所役人のためとみられる「見分入用」などが記され、合計二一貫一〇〇文となった。これを一軒につき五四〇文の計算で割り付けている。
表2-30 采女堀争論入用
(安永9年10月 大沼田新田下分)
費目金額
雑用14人3貫150文
2人500文
19人4貫750文
27人6貫750文
13人3貫250文
7人1貫750文
諸入用306文
見分入用1貫642文
合計21貫100文
*安永9年10月「水論入用勘定帳」(史料集25、p.208)より作成。
*合計はおおよその計算と考えられ、実際の合計とは若干の相違がある。