采女堀争論は、その後も争いの火種となった。文化一二年(一八一五)、堀をめぐって再び問題が起こったのである。安永期には利害を同じくしていたとみられる采女と弥十郎が、今度は対立することになった。采女は子の若狭に、弥十郎は弥左衛門に代替わりしていた。弥左衛門の主張は以下の通りであった。采女堀の水車は出入の後に取り払われていたが、若狭は分水を利用する村々に断りもなく、また新しく水車を仕立てた。若狭の水車の水勢は強く、水車の廻りはよくなったが、大沼田新田の飲み水の流れは悪くなり、水不足におちいった。弥左衛門はなんとか堀をもとに戻して欲しいと主張したのである。弥左衛門はこのとき、「年寄伝兵衛ほか二九人惣代」名主弥左衛門、すなわち、年寄伝兵衛もふくんだ三〇名の百姓の惣代として出訴している(史料集二五、二一三頁)。翌一〇月には内済となり、普請の方法が取り決められ、安永六年(一七七七)四月二七日の裁許をあらためて守るように命じられている。その際に若狭は、村が尾張藩鷹場であるため尾張藩へ願って水車を仕立てたのであり、冥加金(みょうがきん)も上納したいと役所に願ったことを述べている。若狭としては正式な手続きを踏んで水車を仕立てたということだったのであろう。
文化一五年(文政元年)には、小川新田の忠次郎が水車の建設を企てたことで、野中新田・大沼田新田百姓との出入が起こっている。さらにこの出入を遺恨として、翌年には分水樋口をふさぐなどの事件になり、廻り田新田や鈴木新田の扱いを受けた。分水でつながった村々にとって、水の確保は一村のみの問題ではない。いくつもの村を巻き込むかたちで大きな争論が起こっていた。新田開発後においても、水の乏しい武蔵野新田のなかでは、生活基盤である水の安定的な確保をめぐる主張が展開されたのである。