周辺の村々を巻き込んだ大きな争論として、村境をめぐる争論を紹介しよう。現在の小平市域の近世における七つの「村」のうち、五つの「村」がかかわった争論であった。小川新田と廻り田新田との間で起きた、文化一〇・一一年(一八一三・一四)の村境をめぐる争論である。
後述する廻り田新田の主張によれば、この村境が決まったのは、享保期の新田開発の頃にさかのぼるという。武蔵野新田が一斉に割り渡されたとき、小川新田との境に並木を植え、元文元年(享保二一年・一七三六)三月の検地の際には、並木から幅二間の道を除地(じょち)(年貢が免除された土地)として通行していた。並木は廻り田新田の百姓が所持して、これまでに何度も「売木」しており、そのつど、小川新田やそのほかの村とも立ち会いで入札のうえ、売買を行っていた(史料集一七、二七六頁)。