争論の経過

507 ~ 509 / 868ページ
争論のおおまかな経過をみてみよう。文化九年(一八一二)九月、廻り田新田の音右衛門が、所持していた並木を伐り、売り払ったところ、翌文化一〇年一月六日になって、小川新田の次兵衛が音右衛門方へいき、自分が所持している境木にまで伐り込んだと言ってきた。そのため、廻り田新田と小川新田、双方の村役人が立ち会い、今までの境木の前後に境を示す杭を立てておいた。
 一月二五日、小川新田の名主弥市が「双方とも、申争いこれ無き様いたしたく」、すなわち、互いに争いのないようにしたい、と廻り田新田へ書状を送ってきた(史料集一七、二七五頁)。一月二六日早朝に、弥市が問題の場所での会合を申し入れてきたのでいってみると、小川新田の百姓四〇~五〇人がきて、この道は小川新田の道であるから出訴すると言ってきた。そして翌二七日、小川新田名主弥市らは、代官川崎平右衛門役所へ出訴した。
 一月二八日、代官川崎役所から廻り田新田に、小川新田の訴えと役所からの呼び出しを記した書状が届いた。訴えは村側で解決すべきであるが、それができないようなら返答書を持参して、二月五日に出頭し、「対決」せよとの内容であった(史料集一七、二七八頁)。しかし、廻り田新田の組頭庄兵衛は、同じ一月二八日付けで小川新田を訴えた。道筋は「村絵図」や「明細帳」にも書かれているとして、役所による場所の見分と境の確定を求めたのである(史料集一七、二七六頁)。
 二月五日、役所からの呼び出しに応じ、廻り田新田が「返答書」を提出した(史料集一七、二七八頁)。この二月中に、証拠として、問題の場所やその周辺を描いた絵図も提出している(図2-64)。
 

図2-64 村境争論で作成された絵図
文化10年2月「(小川新田との境出入論所麁絵図)」(史料集17、p.285)
 

 六月、役所での吟味の結果、双方の検地帳で二間の道幅は除地にはなっているが、年貢割付には道はふくまれておらず、どちらの村の道かはっきりしないので、道の中央を境にしてはどうかと提案された。しかし、廻り田新田、さらにこの道を使用している鈴木新田・野中新田も不承知であった。三か村は、この道筋はそれぞれの村の地内であるという考えだった。そこで二一日には、廻り田新田があらためて訴状を準備した。訴状では、小川新田の百姓よりも廻り田新田の百姓は一八年も遅れて入村したのであり、廻り田新田が道を後から取り込むことなどできるはずがない、と主張している。結局、この年のうちには結論は出ず、文化一一年にも継続して吟味が行われた。
 
表2-31 村境争論の経過
文化9年
(1812)
9月廻り田新田音右衛門、所持地の並木を売る
文化10年
(1813)
1月6日小川新田次兵衛が所持地の境木まで音右衛門が伐り込んだと言い、さらに小川新田の者が強引に縄張りをし境木を立てたため、廻り田新田は見直すように言うが、聞きいれず
1月25日小川新田名主弥市が争わないようにしたいとの書状を送る
1月26日弥市が会合を申し入れたのでいってみると、小川新田百姓40~50人がきて、道は小川新田のものであるとし、出訴するという
1月27日小川新田弥市ら、代官所へ出訴
1月28日代官所から差紙が届く。同日、廻り田新田も小川新田を訴え、役所の見分を願う
2月5日廻り田新田が返答書提出。この月のうちに証拠書類として麁絵図を提出。村では出入の入用割を議定
6月役所から、道の中央を境にしてはどうかと提案があるも、廻り田・鈴木・野中新田は承知せず
6月21日廻り田新田は、小川新田側に古境はないこと、元文検地以来、3つの村では道を自由にしてきたこと、廻り田新田の百姓は小川新田の百姓よりも遅れて入村したのであり、道を取り込めるはずはない、などを主張
文化11
(1814)
2月9日吟味が行われる
2月14日野中新田の絵図面などを借り、廻り田新田が願書提出
2月15日代官から呼び出され、小川新田は「甚不埒」とされる。双方一旦帰村し、追って呼び出しを受けることになる
4月4日代官の現地見分が行われる
4月20日代官の呼び出しがある
4月24日代官へ証拠書類提出、吟味は勘定所の扱いとなる
4月25日勘定所にて証拠書類の吟味が行われ、廻り田新田が並木売買の立会人名の書き上げを提出することになる
5月2日留役の吟味が行われ、貫井・小金井・関野新田などを呼び出して、検地帳を持参させるよういわれる
5月15日呼び出されるも、吟味はうまく行かず、鈴木・野中新田の検地帳を持参させるよういわれる
5月20日検地帳が揃わず、吟味が流れる
6月2日廻り田新田がさらに奉行所へ訴状提出
8月7日奉行所は、道は「公儀の道」、木品は「御林同様」であるため、願書は取り上げない、という考えを示す
8月27日奉行所の考えに不服として、小川新田が内済破談届提出
10月23日留役による吟味は8月の考えとは異なるため、廻り田新田はこれを不服とする
10月27日大沼田・鈴木新田の検地帳などを吟味、この時、小川新田俊蔵が不法を言って口論となり、俊蔵は「御叱り」となる
10月28日吟味は決しがたく、手付手代が地改めの見分を行うことになる
11月6日代官手付御普請役格服部平十郎・手代鈴木栄助の見分実施
11月争論決着、内済証文作成
*文化年間の村境争論関係史料(史料集17、p.33・p.275-320)から作成。
*争論のおおまかな経過を示したため、関係史料すべての内容を掲載したものではない。