ここで小川新田と廻り田新田、双方の主張をみてみよう。小川新田の主張によれば、道の東側が廻り田新田境で、道は小川新田地内であるという。そのため、廻り田新田の者が伐採した立木は返却すべきであり、道境を変えないようにして欲しいとする。訴状などに記された小川新田の主張は、ほぼこの内容に沿ったものであった。
これに対する廻り田新田の主張は、より具体的であった。並木は廻り田新田の小前百姓が売買してきたのであり、道は廻り田新田地内である。また道の西側並木の外に古くからの境木があるが、東側には境はない。これまで廻り田新田・鈴木新田・野中新田が自由に使用してきたことは、道が三か村の地内である証拠である。廻り田新田は、小川新田よりも一八年も遅れて百姓が入村したのであるから、その後から道を取り込むことなどはできない。後から道を取り込んだというのであれば、その時に出訴したはずである。また一月二五日に、論所の道が崩れたので直すと小川新田の名主弥市から言ってきており、そのことも証拠である。道は今まで通り、廻り田新田・鈴木新田・野中新田の自由にさせて欲しい、という主張であった。廻り田新田の説明は具体的で、また時系列にも沿ったもので、整合性があるという印象を受ける。