四月四日、代官によって現地の見分が行われた。二四日に代官へ証拠書類を提出し、同日、ほかの支配所にかかわる村もあるので、吟味は勘定奉行小長谷長門守(こはせながとのかみ)(政良)へ差し出すとの通知があった。出入はついに勘定所で扱われることになった。翌二五日には早速、小長谷長門守、さらに留役(とめやく)の小倉源之進による吟味が行われた。証拠書類が吟味され、廻り田新田は「並木売揚帳(なみきうりあげちょう)」の存在を示した。名主忠兵衛・組頭庄兵衛は、この帳簿だけでは証拠として不十分ではないか、という相談をしたところ、売買のときには七~八か村に知らせ、四〇~五〇人も入札をしているから、おもな参加者はわかるだろうということになり、売買での立会人の名前を書き上げるよう命じられている。
すでに検地帳は提出していたが、二五日に提出した証拠書類は、「小川新田之者へ並木売渡候帳面」など、小川新田の百姓へ道筋の木を売買したときの帳簿や絵図、村明細帳、小川新田の弥市から出された手紙など、多種に及んでいる(表2-32)。どれも廻り田新田にとっては重要な証拠書類であった(史料集一七、二九四頁)。
表2-32 村境争論での廻り田新田の提出書類 | |||
1 | 明和8年(1771) | 村差出明細帳 | 1冊 |
2 | 寛政5年(1793) | 村絵図 | 1枚 |
3 | (文化6年)巳(1809)2月 | 野中新田の者へ並木売渡候帳面 | 1冊 |
4 | (文化6年)巳(1809)11月 | 小川新田の者へ並木売渡候帳面 | 1冊 |
5 | 文化9年(1812)9月 | 組頭庄兵衛並木買請候帳面 | 1冊 |
6 | (文化10年)酉(1813)1月25日 | 小川新田名主弥市からの手紙 | 1通 |
7 | (文化10年)酉(1813)1月晦日 | 差紙に付けられた時の請書下書 | 1通 |
8 | (文化10年)(1813)8月16日 | 請書 | 1通 |
9 | - | 地引絵図 | 1枚 |
*記載書類の年代順に並べたもの。 *文化11年2月「境出入諸書物控」(史料集17、p.294)のうち(3)より作成。 |