吟味、奉行所扱いとなる

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吟味は翌年も引き続き行われた。文化一一年(一八一四)二月一四日に廻り田新田が願書を提出した。廻り田新田では、一五日に代官から呼び出しを受けたときのやりとりを書き残しており、これによれば、役所は小川新田方を「甚不埒(はなはだふらち)」としたようである。小川新田と廻り田新田の双方は一旦帰村し、追って呼び出しを受けることになった。
 四月四日、代官によって現地の見分が行われた。二四日に代官へ証拠書類を提出し、同日、ほかの支配所にかかわる村もあるので、吟味は勘定奉行小長谷長門守(こはせながとのかみ)(政良)へ差し出すとの通知があった。出入はついに勘定所で扱われることになった。翌二五日には早速、小長谷長門守、さらに留役(とめやく)の小倉源之進による吟味が行われた。証拠書類が吟味され、廻り田新田は「並木売揚帳(なみきうりあげちょう)」の存在を示した。名主忠兵衛・組頭庄兵衛は、この帳簿だけでは証拠として不十分ではないか、という相談をしたところ、売買のときには七~八か村に知らせ、四〇~五〇人も入札をしているから、おもな参加者はわかるだろうということになり、売買での立会人の名前を書き上げるよう命じられている。
 すでに検地帳は提出していたが、二五日に提出した証拠書類は、「小川新田之者へ並木売渡候帳面」など、小川新田の百姓へ道筋の木を売買したときの帳簿や絵図、村明細帳、小川新田の弥市から出された手紙など、多種に及んでいる(表2-32)。どれも廻り田新田にとっては重要な証拠書類であった(史料集一七、二九四頁)。
 
表2-32 村境争論での廻り田新田の提出書類
1明和8年(1771)村差出明細帳1冊
2寛政5年(1793)村絵図1枚
3(文化6年)巳(1809)2月野中新田の者へ並木売渡候帳面1冊
4(文化6年)巳(1809)11月小川新田の者へ並木売渡候帳面1冊
5文化9年(1812)9月組頭庄兵衛並木買請候帳面1冊
6(文化10年)酉(1813)1月25日小川新田名主弥市からの手紙1通
7(文化10年)酉(1813)1月晦日差紙に付けられた時の請書下書1通
8(文化10年)(1813)8月16日請書1通
9地引絵図1枚
*記載書類の年代順に並べたもの。
*文化11年2月「境出入諸書物控」(史料集17、p.294)のうち(3)より作成。