内済へ

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その後も吟味は行われたが決着とはならなかった。そして八月に出された奉行所の考えは、道は「公儀(こうぎ)の道」であり、木品は「御林(おはやし)同様」、これは「天下の御法」であるため願書は取り上げない、というものであった(史料集一七、二九四頁)。廻り田新田と小川新田の双方へ、これに同意する旨の趣意書を出すよう指示されたが、小川新田側は不服とし、二七日に「内済破談届(ないさいはだんとどけ)」を提出した(史料集一七、三一〇頁)。内済案には同意できないとの意思表示である。吟味はさらに継続されることになった。
 二か月後の一〇月一七日、吟味は曲淵甲斐守(まがりぶちかいのかみ)(景露)へ引き渡された。二三日の留役による吟味では、「出入の儀は軽からざる義に付」、すなわち、この出入は簡単なものではないとされ、道の並木は公儀(幕府)や国の領主(藩主)、地頭(代官)が決めるものであるが、今回の論所の道は脇道なので、木品は地元の村々が決めることであった、と八月の時点とは異なる見解が出された。八月に言われた「御法」の問題とは異なるということである。これに対して反発したのは廻り田新田の方であった。廻り田新田は「御法」にそむくことはないが、小川新田の申し立てはすべて偽りであるから証拠をもとに調べて欲しいと主張した。廻り田新田がさらなる証拠書類の引き合いを願ったため、関係する小川新田の弥市・大沼田新田・野中新田が召し出されることになった。
 二七日、大沼田新田・鈴木新田から提出された検地帳が吟味された。同時に、関係者からの聞き取りも行い、大沼田新田の名主弥左衛門は、道の西側が境であろうと答えた。その後、留役は、弥左衛門に出入の取り扱いを命じた。このとき、小川新田の俊蔵が不法を言って口論となったため、役所から注意を受けている。