争論の結果

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二八日、留役奥村源太郎による吟味が行われ、吟味は決しがたいということになり、再び、手付手代の見分が決定された。見分は一一月六日に実施された。村には手付御普請役格服部平十郎と手代鈴木栄助が見分に訪れたようである。そして一一月中に吟味が決着し、内済証文が作成された。南野中新田名主六郎右衛門・大沼田新田名主弥左衛門・本多新田年寄半蔵の取り扱いによるもので(図2-62)、結果はつぎの通りであった(史料集一七、三三頁)。
①各村の検地帳には明確な記載はなく、道は一つの村の所持にはならない。
②よって、道の西側、小川新田地境の卯木(うつぎ)(生け垣などに使用された低木の一種)・みねはり(「峰榛(みねばり)」〈落葉高木の一種〉か)から東へ二間をはかり、廻り田新田・鈴木新田の地内までは道幅を二間と決める。野中新田との道は現状のまま二間あるいは二間半とする。
③道は左右の村による所持として、道幅内の両側の木品は、ここで双方が立ち会って伐り払い、今後は木品が育たないようにする。
④道筋の普請、橋の掛け替え、非常の時も道の左右の村々の相談で決める。
⑤一昨年、廻り田新田の百姓が伐り採った木品は、扱人が貰い請ける。
⑥双方の憤りもまた、扱人が貰い請ける。

 この結果は廻り田新田からみれば、自村のものとして慣習的に利用していた道筋、そして伐木の既得権益が失われたことになる。