奉行所では、論所の道は「公儀の道」、これは「天下の御法」であるとして決着をはかろうとし、廻り田新田は、それならば納得するとしていた。ところがその後、「御法」の道には該当しないと言われ、いくつもの証拠書類を提出したにもかかわらず、検地帳のみが証拠になるといわれるなど、廻り田新田にとっては納得のいかない内容がつぎつぎにもたらされた。村では「駆込訴下書」と表題が付けられた訴状が用意されたようである。この訴状は、検地のときに道の境木として、卯木やみねはりを植えると決められ、これを「御趣意」として守ってきたのに、今になってこの境木は信用できないと言われては、何を境とするべきなのかわからない、と支配側に対する不満をも述べるような内容となっていた(史料集一七、三一二頁)。駆込訴は実際には行われなかったとみられるが、村は奉行所からの言葉をそのまま受け入れるだけではなく、自らの意見を通すための努力を行っていたといえよう。