争論のなかで、廻り田新田は百姓一五軒のみの村であることから、小川新田が「小村と侮り相掠め候致し方」、すなわち、廻り田新田を小さい村と侮り、権益を奪い取ろうとしていると主張していた(史料集一七、三一二頁)。小川新田の百姓が、普段からそのような態度を取っていたのか具体的には不明だが、廻り田新田は、小川新田の態度を不服としていたのである。
一方で、小川新田と廻り田新田は、村政においては、密接ともいえる関係を持っていたようである。弘化元年(一八四四)の史料によれば、「御用向(ごようむき)」は小川新田の村役人に頼んでいると記され、また代官の支配が替わり、小川新田と別になってしまうのは「難渋(なんじゅう)」であるとも主張していた(斉藤家文書)。両村の関係を示す、興味深いことばである。