大沼田新田では開発直後の寛保年間(一七四一~四四)に、弥左衛門家と伝兵衛家の名主役就任をめぐる対立があった(第一章第二節5)。また、「采女堀」をめぐる安永年間(一七七二~八一)の争論でも、大沼田新田上分(弥左衛門方)と下分(伝兵衛方)として、両者が対立する構図となっていた(本節2)。村の出入が起こる要因は、開発人の両家の存在に内在していたともいえるだろう。
そして近世後期の大沼田新田は、さまざまな要因によるいくつもの出入が、絶え間なく続く状態になってしまうが、これらの出入もまた、名主弥左衛門と年寄伝兵衛の対立の構図が常につきまとうものであった。弥左衛門が弘化年間(一八四四~四八)頃に記したところによれば、天保七年(一八三六)以降、およそ一〇年にわたって出入が続く状態になったという(史料集二五、二三五頁)。天保七年の出入は、弥左衛門水車の堀筋をめぐり、隣家の金次郎との間で起こったもので、さらに金次郎と堀筋に通じる水路を利用していた九名の百姓との間でも出入が起こっていた。