天保一二年の地所出入

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弥左衛門家と伝兵衛家の関係は、天保一二年(一八四一)の土地をめぐる出入を発端として表面化した。名主弥左衛門と二軒隣の喜助の間で、質流地をめぐって争った「地所出入」である。これより前の天保一一年一一月、大沼田新田の「水下九人」、すなわち「裏通り」とも呼ばれる地域に居住する百姓九軒から、喜助のことで訴えが発生していた(史料集二五、二一九頁)。
 そして天保一二年閏正月、弥左衛門が代官中村八太夫役所へ出訴した。事件の発端は、喜助が年貢などに差し支え、弥左衛門が喜助の所持地のうち二反六畝一〇歩を質地として金子を工面したことにあった。弥左衛門の主張によれば、喜助は年季明けの際も土地の請戻しができなかったため、土地は質流地となった。喜助は持高も少なかったので、当該地は喜助の小作としたものの、いよいよ年貢などが納められなくなってきた。そこで小作料が滞っている分は弥左衞門が勘弁し、土地は手作すると言ったところ、喜助は土地を質流れにした覚えはないと言い出したのである。質流地証文に連印した者のうち、金右衛門は間違いなく加判したと言っているが、喜助本人と組合五郎右衛門・年寄伝兵衛は一向に取り合わず、弥左衛門は彼らが当該地を掠め取ろうとしていると考えた。そこで弥左衛門は、喜助・五郎右衛門・伝兵衛の三人を訴えたのである(史料集一七、七六頁)。
 これに対して喜助側も、弥左衛門が名主の権威で小前百姓をだましているなどとして、同月のうちに奉行所あて、代官中村八太夫役所あてに訴状を作成した(史料集一七、七七・八〇頁)。名主弥左衛門と年寄伝兵衛の二人によって村政が行われている村であったから、出入は村を代表する二人が直接対決する構図となってしまう。このことが出入の事態をさらに悪化させたとみられる。二月四日には、係争中という理由で、伝兵衛を除いて弥左衛門が年貢勘定を行っているとして、年貢勘定に立ち会わせるようにと伝兵衛が訴えている。
 役所での吟味が行われようとしていた閏正月晦日、元一一代将軍、大御所徳川家斉が薨去したことにより、吟味は休みとなってしまった。江戸へ出府していた百姓たちは一旦帰村することになった。三月には代官が中村八太夫から山本大膳へ支配替えになったため、あらためて役所から呼び出しがあると言われている。喜助・伝兵衛側は三月にあらためて山本大膳役所へ訴状を提出し、弥左衛門に年貢勘定帳などを差し出させ、突き合わせるように願い出た。いよいよ四月になって吟味が再開、関係者は再び江戸へ出府した。