江戸出府と滞在

516 ~ 517 / 868ページ
四月に再開された吟味の際、喜助・伝兵衛方では「一件日記覚」という江戸滞在の記録を作成した(史料集一七、九四頁)。四月一三日から六月九日までの吟味のようすと合わせて、喜助・伝兵衛側の江戸滞在の百姓名を記したものである。訴訟の当事者である喜助・伝兵衛・五郎右衛門のほかにも、村からは数人の百姓が来訪し、また滞在することもあったようで、常時三~五人が江戸に滞在していた。表2-33に吟味の概略を示したので、出府時のようすをみてみよう。
表2-33 天保12年(1841) 地所出入吟味の経過
事項
413差日。出府届提出。差添人を呼ぶよう命じられる
14差添人の呼び出しと諸帳面の提出を命じられる
15
16
17諸帳面に関する立ち会い勘定を命じられる
18三久が立ち会い、年貢取立帳の差出部分の写し取りを行う
19出頭。提出帳面の不足のため、役所から反別などの書き抜きを渡され、写し取る
20休。ただし、弥左衛門と手紙での掛け合いを行う
21帳面に相違がある
22役所へ出頭。帳面の相違を指摘し、内済を提案されるも、弥左衛門方は不承知
23腰掛へ出頭
24役所へ出頭。田無村半兵衛が扱人として呼び出される
25
26
27役所から呼び出され、腰掛で相談するもうまくいかない。三久での来月の掛け合いなどを依頼
28
29
51扱人の立ち会いで三久で掛け合う予定だったが弥左衛門が病気のため延期
2三久で立ち会い、扱人が双方からの趣意書提出を提案するも違いが多くある
3
4役所へ出頭。喜助が呼び出され、地所の替地を提案されるも弥左衛門は不承知
5
6
7
8呼び出しがあり、羽村安次郎が扱人となる
9
10
11三久で立ち会い、替地の書状が作成されるも、不備があり再度掛け合うことになる
12
13役所へ一同が出頭。替地は喜助が不承知で、再び立入人の田無村半兵衛が召し出される
14
15
16田無村半兵衛が出府。羽村安次郎がほかの一件を抱えているため、吟味は延期
17一同が三久で立ち会い、地所替えについての勘定を見積もる
18羽村安次郎がほかの一件を抱えているため、吟味は延期
19一同が出頭。以前の話と違うとして喜助が地所替えに不承知で、吟味は白洲留となる
20一同が出頭。喜助は地所替えを不承知として再度白洲留、破談となる
21
22
23
24
25
26
27
28呼出。人別帳の肩書きについて答える
29
61
2
3
4
5
6
7
8
9呼出。人別帳の肩書きについて答える。弥左衛門へ証文作成が命じられる
天保12年4月「一件日記覚」(史料集17、p.94)より作成。

 役所から出府を命じられた「差日」の四月一三日、喜助・伝兵衛・五郎右衛門は江戸に到着したことを役所へ届け出た。その際、役所からは「差添人」を呼び寄せるように命じられた。翌日、三人は再び出頭するも、同じく差添人がいないことで断られ、このとき弥左衛門方へは吟味のための諸帳面の差し出しが命じられた。弥左衛門は吟味の日延べをし、一七日に再度出頭することになった。
 吟味は証拠書類である年貢取立帳などをめぐってやりとりがあるが解決にはいたらず、二二日には役所が、双方(弥左衛門と伝兵衛のことか)は親類でもあるからとして内済を促したが、弥左衛門は承知しなかった。二四日、田無村の半兵衛が扱人として呼ばれることになった。
 田無村半兵衛の到着まで吟味は休みになった。二六日に半兵衛が到着、二七日には役所から呼び出しがあり、案書などを作成したが不行届となったため、翌月一日に郷宿(ごうやど)とみられる「三久」で立ち会うことになった。五月一日には弥左衛門が病気のため翌日に日延べとなった。その後も三久で立ち会い、扱人から趣意書を提出するよう提案されるなどしたが、一向に埒が明かなかった。五月に入ると吟味が休みになる日も多くなり、出入は日ごとに膠着状態となっていった。