膠着状態となった吟味は、五月八日、羽村(現羽村市)の安次郎が新たに扱人となった。一三日には田無村の半兵衛が再び呼び出され、一六日に出府した。それでも吟味はなかなか進まなかった。理由の一つは、安次郎が大沼田新田の地所出入だけではなく、「清水村一件」「二又尾村一件」など複数の出入を抱えていたためであった。そのため、半兵衛一人では扱いかねるとして、吟味を延期している。扱人を依頼される百姓は同時に複数の出入をかけもっており、このことは、それぞれの吟味が先延ばしになっていく原因にもなっていた。安次郎は、半兵衛と同様に現在の多摩地域に残されている史料ではたびたび扱人として登場する人物で、「御用鮎(ごようあゆ)世話役名主」なども勤めていた人物である。
その後、地所出入の当事者であった弥左衛門、伝兵衛にも別の出入の知らせが入った。大沼田新田の金次郎と小川新田の弥平二との間で、貸金をめぐる出入が起こったというのである。代官からは出頭の差紙が村に届いたが、大沼田新田では、差紙に対応できる名主と年寄、二人の村役人が地所出入によって出府しているため対応ができなかった。弥左衛門と伝兵衛は連名で、二五日まで村へ帰して欲しいという願書を出した。天保一三年(一八四二)の史料でも、大沼田新田の名主と年寄は「訴答に相馴れ候儀にて」、すなわち、両者が訴訟への対応に慣れていることが記されている(史料集一七、一一五頁)。