訴訟慣れする百姓

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村々ではいくつもの出入が頻発し、複数の訴訟を同時に抱える扱人やこれに対応する村役人がいた。大沼田新田の百姓が述べているように、村役人を中心として、百姓たちはしだいに訴訟に慣れていったと考えられる。また江戸との距離でいえば、江戸周辺の村の百姓たちは、複数の訴訟を同時に抱えることも可能だったのであろう。
 また、吟味が休みとなった四月二五日に、五郎右衛門と喜助が「内帰村」をしている。「内帰村」とは役所には届けず、「内々に」村に帰ったということであろう。翌日、二人は宿に戻っている。江戸から大沼田新田までは約七里(約二八キロメートル)である。出府中の百姓たちは、さまざまな理由でたびたび村に帰っていた。内緒で村に帰り、すぐに戻っているようすからは、江戸と村との往復が、百姓の意識のなかでも、比較的容易なものであったことを示しているといえよう。