さまざまな原因によって、地所出入は一向に収束に向かわなかった。証拠書類の不備、扱人や村役人が出頭できない事情などもあったが、一方で、村役人をはじめ訴訟に慣れた百姓が増えていくことも、出入を長引かせる要因になったといえる。前述のように四月二二日に役所によって内済が促されたが、弥左衛門は承知しなかった。五月四日には喜助に対して、地所を替えることと弥左衛門からの手当を出すことでの内済を提案されたが、これも弥左衛門は承知しなかった。さらに五月一三日には、喜助が地所替えの土地を「源左衛門分」とすることには納得できないということでさらに話し合いが続いた。五月一九日に関係者が揃って出頭し、地所替えについては一割余の土地を添えるということで納得させようとしたが、喜助は以前の話と違うので不承知との態度をとったため「白洲留」(中断のことか)になった。二〇日、喜助が納得しないのならば、いよいよつぎの吟味になることを心得るように言われた。役所はそれまで内済を促していたが、双方がなかなか納得しなかったため、扱人による内済が「破談」となり、さらなる吟味が続けられることになったのである。
五月二一日から二七日までは呼び出しもなく、二八日になってようやく呼び出しがあったものの、再び六月八日にいたるまで休みが続いている。この間、百姓たちはたびたび村へ帰り、再び江戸へ出るなどを繰り返していた。「一件日記覚」の記述は六月九日でおわっているので、その後の内済にいたるまでの詳しい経過は不明であるが、四月に江戸へ再出府してからおよそ二か月間、出入は一向に解決せず、ようやく一一月に内済した。
以上のように、吟味は双方が内済案に承知するまで続けられた。百姓は役所からの内済案に簡単に従うようなことはなく、「不承知」を申し立てるなど、自身の言い分、権利を主張していた。そして、公儀は内済を奨励していたから、役所は百姓らに内済案を強制しなかった。出入の解決は、あくまでも双方の合意が必要と考えられていたのである。しかしこのことは、百姓たちが納得するまで吟味が続けられる要因にもなった。訴訟は長引き、百姓たちは自分たちが有利な結果を得るべく、さまざまな方策を立てていたであろう。