地所出入は、弥左衛門と伝兵衛の対立を要因とするつぎの出入を引き起こした。村の名主と年寄の対立は、村全体の問題として表面化したのである。天保一五年(弘化元年・一八四四)三月、百姓五郎右衛門から代官江川太郎左衛門役所へ、大沼田新田内での縁談をめぐる出入の訴状が提出された。内容はつぎの通りであった。
以前は小川村の治郎兵衛と夫婦であった「なか」が、娘の「くに」を連れて八右衛門方へ嫁入りした。なかと八右衛門の間で子どもができたので、子どものいない五郎右衛門は当初からの約束で、くにを養女にむかえる予定であった。五郎右衛門は下里村(現東久留米市)の国三郎を養子とし、くにとの縁談をまとめようとした。しかし、弥左衛門と喜助の地所出入以来、村ではつぎつぎに出入が起こり、小前百姓がばらばらになってしまった。八右衛門は弥左衛門側の百姓、五郎右衛門は伝兵衛側の百姓であり、「敵身方(てきみかた)」なのだから縁談は認められないと弥左衛門に言われた。しかし五郎右衛門ほか村の百姓は、弥左衛門と伝兵衛の対立があったとしても、両者の関係が村の縁談に支障をきたすようでは各家の相続にもかかわると考えていた。そこで、弥左衛門に縁談の許可を求めて歎願にいったが、くにを連れていかれ、また大勢で押しかけるなどされた。しかし、五郎右衛門はなんとか縁談をまとめたいと考え、また押しかけなどされないよう、代官所へ訴えたのである。
地所出入によって、村の百姓は弥左衛門側と伝兵衛側に分かれ、村は完全に二分されてしまったのである。弥左衛門は、「敵」の百姓側への縁談は認められないとしたため、出入が起こった。両者の対立が百姓の縁談や相続の問題にまで影響を及ぼしてしまったのである。しかし一方で百姓たちは、名主と年寄の対立と、各家の縁談とは別の話で、それぞれの「随身(ずいしん)」が縁談をまとめてもよいと考えていたのだろう。くにも国三郎との縁談を希望していた。各百姓の間にはそれほどの対立関係はなく、彼らはある程度冷静に、名主家と年寄家の対立と現実をみていたのかもしれない。村が二分されてしまうことは村の安定にかかわる問題でもあっただろう。
結局この縁談出入は、五郎右衛門の養子にする予定であった国三郎を一旦里方へ戻し、これまでの村のしきたりに従って、まずは「人別送り状」を持参させるということで一旦決着した(史料集一七、一五三頁)。