名主弥左衛門の主張

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その後、伝兵衛側の百姓である金次郎家の年貢不納出入なども起こっていた。これらの争論ののち、弥左衛門が記したと考えられる文書に「村方乱法始末書(むらかたらんぼうしまつしょ)」と表題が付けられたものがある(史料集二五、二三五頁)。天保七年(一八三六)以来の出入についての経緯が記されると共に、各出入に対する弥左衛門の主張や見解が示されている。内容ごとにまとめるとおおよそ以下の通りとなる。
①弥左衛門は、水車稼ぎを新田入村当初、金次(治)郎と相談のうえで行ってきたが、その忰が水車稼ぎを憎み、金子の無心をたびたび申し込んできた。その後もたび重なる借金をめぐってもめ事が起きているが、これは年寄伝兵衛と大岱村半治郎が計画したことである。
②喜助の土地内の堀水を屋敷続きの金次郎が差し留め、出入となった。堀をふさがないという証文と詫書を取ったが、これも伝兵衛・金次郎・半治郎の後押しによる悪事である。
③さらに喜助との間で質流地をめぐる地所出入となった(前述)。
④天保期の地所出入によって喜助・伝兵衛は入牢、五郎右衛門は手鎖・宿預けとなり、地所は流地と認められた。金次郎忰周蔵・伝兵衛・半治郎はこれを恨みに思い、流地となった土地をいまだに渡さない。
⑤天保一三年には、喜助の畑の薩摩芋の苗を、子どもがいたずらで少し抜き捨てたことで、伝兵衛・金次郎・喜助が後押しして子どもの親へ難題をかけ、役所へ出訴したが、結局伝兵衛が詫書を出した。
⑥天保一五年(弘化元年)三月、五郎右衛門が国三郎を養子にしたいと言ってきたがしきたりを守っていなかった。そんな時、伝兵衛・周蔵・半次郎が五郎右衛門をそそのかし、縁談出入を起こした。彼らは全く大胆不敵な者たちである。この一件を企てた者たちは必ず重いとがめを受けると思い、村の者たちは長い間農業ができず江戸へ詰めて困窮していることもあり、村方に相談もせずに内済してしまったが、大変後悔している。
⑦金次郎後家まんの年貢不納出入は、金次郎家が天保八年以降、年貢を納めなかったことからの訴えである。しかし金次郎忰周蔵は年貢を納めたと言い、その受取書を名主から渡されていないなどと言っていた。

 続けて弥左衛門は、伝兵衛に対しての思いを、以下のように記している。年貢不納出入の吟味でも、年寄伝兵衛が差添人として荷担し、年貢請取帳は弥左衛門が作った偽物だと言うなど、伝兵衛が無体なことを言っているのは、弥左衛門を落とし入れる企みである。また、天保七年から一〇年間の出入はすべて年寄伝兵衛が企てたもので、伝兵衛が差添人となっていない件は一つもない。しかし、これらは謀計であるため訴えが認められたものは一件もない。伝兵衛が村役を勤めていると村の掟はすべて破られ、「闇夜」のようである。弥左衛門はすでに七六才で歩行も筆算も覚束なく、伝兵衛は筆算も上手ではないために御用に差し支えて村入用も滞ってしまう。伝兵衛が村役についていると、名主の跡役に就くものはいない。このように、弥左衛門は天保七年以来の出入はすべて伝兵衛のしわざとし、積年の思いを込めたような内容を記した。これに対する伝兵衛の主張はわからず、真偽はどの程度かは不明であるが、弥左衛門がすべてを伝兵衛のしわざにしたくなるほどの、長きにわたる村内の争いであった。