弥左衛門が、出入や伝兵衛に対する考えを書き連ねた弘化二年(一八四五)、長きにわたる両者の争論は一旦決着したとみられる。伝兵衛は翌弘化三年、金比羅詣から草津温泉での湯治など七七日間に及ぶ旅に出た。伝兵衛三八才であった。この時期に、勘左衛門と七郎左衛門が組頭役を仰せ付けられた(本章第一節2)。伝兵衛はたびたびの争論ののち、結局、村政を離れることになったのであろう。
大沼田新田ではその後、村の若者が無宿者(むしゅくもの)となって、村で問題を起こすこともあった。幕末期の治安悪化のようすを示すものであるが、弥左衛門はじめ村役人は、村の安定に引き続き苦慮していたであろう。