出入と村役人

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大沼田新田では、村役人が名主と年寄の二家であったことで、両者には出入の有無にはかかわらない、村政運営の遂行責任が求められていた(本章第一節2)。伝兵衛は一旦村政を離れてから、安政五年(一八五八)に再び年寄に就任した。そして翌安政六年には伝兵衛が栄左衞門に、忰平次郎が伝兵衛に改名して、伝兵衛家が代替わりした。伝兵衛家は年寄を勤めるものであり、また村役人は弥左衛門と伝兵衛の二家、との意識が村には根強く存在していたのかもしれない。
 なお、これより前の嘉永六年(一八五三)に、當麻佐兵衛の娘「せい」が連光寺村(現多摩市)の名主家に嫁いだ(本章第四節3)。せいの家は伝兵衛家を本家としていたが、このとき、弥左衛門家の翁助(のち弥左衛門)も婚礼に列席している。大沼田新田にとって弥左衛門家と伝兵衛家、両當麻家の関係が良好であることは、村の日常的な安定に直結するものであっただろう。