コラム 郷宿と村

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 百姓が支配役所へ訴状を提出し、訴状が受理されると、役所から関係する百姓を呼び出す「差紙(さしがみ)」が村に届けられることになっていた。大沼田新田には、天保一二年(一八四一)の地所出入にかかわると考えられる、馬喰町(ばくろちょう)(現千代田区日本橋)三丁目「ちゝふや(秩父屋)清助」から届けられた、差紙についての通知がある(当麻伝兵衛家文書)。閏正月九日付けのもので、年寄伝兵衛に対して、役所から差紙を渡されたので連絡する、遅れず出府するように、との内容である。秩父屋清助は、近世の多摩地域の村々の史料でたびたびその名を目にする「郷宿(ごうやど)」の一つである。
 郷宿とは、公事宿(くじやど)あるいは百姓宿などとも呼ばれ、百姓が江戸で訴訟などを行う場合の宿泊所であった。また宿泊所としてだけではなく、訴訟で提出する願書などの代書、領主から村々への廻状の通達、処罰人の留め置きなども請け負っていた。さらには領主に代わって、村々への年貢金上納の督促などを請け負うこともあった。郷宿は、村と領主をつなぐ、仲介者としての役割を果たしていたのである。
 郷宿には「得意先」ともいえる村があった。多摩郡柴崎村(現立川市)の名主が記した日記には、天保一二年二月二一日、新しく江川太郎左衛門代官支配となった村々に対して、秩父屋が引き続き、江川代官所に出入りする郷宿となった旨、挨拶に廻っていたことが記されている(『鈴木平九郎「公私日記」』第五冊)。
 村にとっても、なじみの郷宿が担当する方が都合はよかったであろう。安政五年(一八五八)二月、幕末の海防対策にかかわって、武蔵国・相模国のうちの五八か村が江川代官支配から熊本藩細川家の預所となったとき、村々は細川家の大津(現神奈川県横須賀市)陣屋ではなく、江戸の細川家屋敷内の御預役所での取り扱いを願った。その際、江川代官支配のときと同様、津久井屋新三郎と秩父屋清助を、引き続き郷宿として利用することを認める通達が、村々に出されている(『東村山市史』8、八〇八頁)。

図2-65 秩父屋清助の印
午8月「(停止触廻状)」(斉藤家文書)

 橋本町(現千代田区東神田)四丁目の津久井屋新三郎も、多摩地域の村々を顧客としていた郷宿である。大沼田新田の伝兵衛あて、津久井屋新三郎によって出された「出府中飯料代金」、すなわち、江戸での食事代の請求書なども残されている(当麻伝兵衛家文書)。江戸出府時の食事など、百姓が江戸に滞在したときの日常生活も垣間みられよう。
 ここで、馬喰町や橋本町の位置を、江戸切絵図によって確認してみよう(図2-66)。嘉永六年(一八五三)の近江屋板「再板鎧之渡柳原両国箱崎辺絵図(さいはんよろいのわたしやなぎはらりょうごくはこざきあたりのえず)」によれば、馬喰町や橋本町に近接して「御郡代屋敷」があり、当時の代官斉藤嘉兵衛・竹垣三右衛門の名がある。代官屋敷のすぐそばに、郷宿が置かれていたのである。代官の呼び出しなどに対応するには、最も適した場所であっただろう。このあたりは郷宿が集中していた地でもあり、機能的に造成された江戸市中のようすをよく示している。

図2-66 江戸切絵図の馬喰町・橋本町付近
嘉永6年「再板鎧之渡柳原両国箱崎辺絵図」より。
斎藤直成編『江戸切絵図集成』第二巻近江屋板上、p.64より転載。