開発期の小川村の様子を詳細にのぞいてみると、そこには、武家が所持する屋敷-抱屋敷(かかえやしき)が四一軒確認できる。江戸の武士たちは、江戸から遠く離れた小川村に、何故こぞって抱屋敷を持ったのだろうか。抱屋敷とは、通常、武家等が年貢地に買得(かいとく)した地所のことを指す。年貢地なので、幕領であれば代官、私領であれば領主の支配を受け、抱屋敷所持者である武家が、年貢支払いや諸役負担の義務を果たすという、特殊な関係を持った地所である。武家屋敷は、幕府から大名や旗本御家人など直臣(じきしん)に対して下される拝領屋敷(はいりょうやしき)と、武家が購入する町屋敷、町並屋敷、抱屋敷とに分かれる。拝領屋敷とは幕府から下賜(かし)されたいわば公邸である。一方、武家が購入する町屋敷・町並屋敷・抱屋敷は、武家が自身の財力などによって獲得できるものの、本来百姓や町人の所持地であり、元の持ち主が負っていた年貢や諸役負担を引き続き負わなければならなかった。
武家屋敷を機能で分類すると、上屋敷(かみやしき)・中屋敷(なかやしき)・下屋敷(しもやしき)・蔵屋敷(くらやしき)などに分かれる。通常、上屋敷は藩主の居所、中屋敷は隠居や世子(せし)など藩主の親族の居所、下屋敷は郊外の庭園や避難所、蔵屋敷は藩の蔵米(くらまい)などを備蓄する場所であり、またそれぞれに江戸詰(づめ)の藩士達が居住して江戸藩邸を形成していた。上・中・下・蔵すべての屋敷を拝領屋敷でまかなうことはなかなかできないため、武家は、その不足分を町屋敷・町並屋敷や抱屋敷で充足するべく、積極的に屋敷地や年貢地を買い求めたのである。
抱屋敷は、一七世紀前半にはその存在が確認されるが、武家による百姓地の取得が本格化するのは明暦の大火後である。大火によって江戸市中の拝領屋敷を失った武家達は、郊外に避災地(ひさいち)を持つ必要に迫られ、幕府からの拝領を待たずに抱屋敷を購入していったことが知られている。従来、抱屋敷は、明暦の大火以後、同心円状に拡大する江戸において、江戸場末(江戸近接・江戸近郊、現山手線沿線)地域が町場(まちば)化する要因(農地買得→武家地形成→市街化)として捉えられ、それら抱屋敷は、当初避災地、やがて別荘・庭園・菜園などの用途で用いられるようになること、通常の抱屋敷は日本橋から一~二里以内、御府内場末間に存在することが明らかにされ、屋敷主と百姓は独自の社会関係(擬制(ぎせい)的領主関係)で結ばれ、抱屋敷が地域にさまざまな影響をもたらすと同時に、地域側も、抱屋敷を地域の利益に結び付けようとしたことが明らかにされてきた(原田佳伸「江戸場末百姓地の宅地化とその要因」)。
しかし、江戸場末から遙か遠方の小川村にも、多くの抱屋敷があったのである。小川村に抱屋敷がこれだけ存在した背景には、小川村の開発という事情が、大きな意味を持っていた。