これらの武家が小川村に抱屋敷を取得した時期で最も多いのは開発期で、一〇軒の抱屋敷が「発端(ほったん)より」「開発致され候時分」「其方親(そのほうおや)一郎兵衛新田開発の時」「其方(そのほう)祖父九郎兵衛(くろべえ)新田開発の節」「新田発端の時分」「新田開発の節」「草分の砌(くさわけのみぎり)」など、開発期に所持されはじめたとされている。この「新田開発の節」が正確に何年を示すのかは定かではないが、開発が許可されて入村がはじまった明暦二年(一六五六)から、仮検地を受ける寛文四年(一六六四)頃であろう。以後、寛文年間(一六六一~七三)までに取得していたことが確認されるものが四軒あるが、うち二軒は寛文以前に取得され、寛文年間に他の武家や小川村名主に売り渡されたものである。以後、延宝年間(一六七三~八一)五軒、天和年間(一六八一~八四)三軒、元禄年間(一六八八~一七〇四)三軒、享保四年(一七一九)に一軒の抱屋敷が取得されている。取得年代の判明する二四軒の抱屋敷のうち、半数以上の一四軒が、最初の本検地の終了する寛文九年までに取得されていることからも、これらの抱屋敷が小川村の開発と何らかのかかわりを持って取得されたと考えられる。
小川村は、青梅街道を横軸に、鎌倉街道を縦軸に、横長の菱形のような形で開発されており、青梅街道の南北に短冊状に整然と地割りされ、街道沿いに屋敷地が、屋敷地の裏手を玉川上水の分水が横断し、その外部が畑として開発されていった(第一章第一節)。抱屋敷の検地帳(けんちちょう)をみると、抱屋敷も同様の経緯をたどっていることが確認できる。たとえば旗本近藤登之助(のぼりのすけ)の所持していた抱屋敷の場合、表口は一軒あたり一〇間であり、寛文九年以前に、屋敷地が縦に各二五間、屋敷の裏手に下畑(げばた)が五〇間、下々畑(げげばた)が二〇〇間と三五間開発され、寛文九年に検地を受けている(史料集一三、三一八頁)。寛文九年以後も下々畑の開発が進み、延宝二年(一六七四)の検地で縦数十間分が高請(たかうけ)されている。このように、近藤家の抱屋敷は、所持開始以後も開発が続けられており、開発期に取得された他の抱屋敷も同様であったと考えられる。開発の結果、正徳二年(一七一二)段階での近藤家の抱屋敷は、間口一〇間に裏行(うらゆき)(縦)三六七・五間が一軒、裏行三三二間が二軒となっていた。一間を一・八メートルとすると、横幅約一八メートル、縦約六六一・五メートル、三六七五坪のきわめて縦長の土地が一軒の抱屋敷であり、うち青梅街道に面した縦約四五メートルが屋敷地、その外が下畑と下々畑となる。ほかの抱屋敷もおおよそ間口は一軒あたり一〇~一二間であり、開発期に小川家に集った武家たちは、開発地を間口単位で割り渡される形で抱屋敷を所持していったことがわかる。