小川村では開発後も、百姓からの譲渡というかたちで、あらたに抱屋敷が取得されていった。延宝七年に、小川村の百姓源左衛門(げんざえもん)が、五人組を証人として、関甚右衛門(せきじんえもん)・甚五兵衛(じんごべえ)に、表口二四間の抱屋敷(屋敷畑竹木(はたたけき))を、六両二分で売り渡した事例から、この手続きについてみておきたい(小川家文書)。源左衛門はこの代金によって、年貢未進(みしん)分を進納(しんのう)するとしており、源左衛門が土地を手放した理由は、年貢の支払いが困難になったことであると考えられる。これによって、源左衛門はこの地所に対する権利を失うことが念を押して確認されている。注目されるのは、続けて同日に発行された証文である。ここでは、関家は、取得した抱屋敷の屋守(やもり)を源左衛門にしているのである。源左衛門は、地代として毎月晦日(みそか)に六二四文を関家に支払い、また、年貢諸役なども源左衛門方で勤めることが約束されている。この手続きからは、困窮した百姓が武家に地所を売却し、武家は元地主の百姓を屋守としてそのまま仕付け、地代を屋守から取る。百姓にとっては売却代金を臨時収入(六両二分)としてえることによって困窮を脱し、屋守となることでそのまま耕作することができる。武家にとっては、地代(月六二四文)をえることで、投下資金(六両二分)は四年程度で回収でき、以降は純利益となる。小川村は寛文四年(一六六四)の仮検地で二七〇石を割り付けられて以来、寛文九年(一六六九)の本検地で四二一石、延宝二年の検地で五九六石、天和三年(一六八三)の検地で六六〇石と開発が進展しており、武家が取得した抱屋敷も、検地のたびに耕地を増やしており、取得時から資産価値が上昇しているのである。また、抱屋敷には後述するような下屋敷的機能を期待できるなどの利益もあり、村(名主)にとっても、困窮した百姓が救済され、年貢支払い者がより確かな武家となるため、三者の利益が合致するなかで、開発期の小川村に抱屋敷が取得されていったと考えられる。
他の事例でも、百姓が土地を手放す理由としては「拙者(せっしゃ)義年々御年貢未進何共迷惑仕(みしんなんともめいわくつかまつ)り候に付き」「近年打続(きんねんうちつづき)耕作違(ちがい)三ケ年以来風損氷雨損(ふうそんひょううそん)に逢(あい)年々御年貢未進(みしん)仕り」など、開発後の生産が不安定な状況で、飢饉(ききん)などによって年貢諸役が果たせなくなったことが、武家の抱屋敷取得の要因となったことがわかる。先に見た関家は、延宝元年に小川村の百姓又右衛門(またえもん)にも金銭を貸与し、年限までに返進出来なければ、又右衛門の所持する「表口四拾弐間裏へ□□(欠損)みの家屋敷竹木(いえやしきたけき)迄残らず御取成(とりな)られべく」とする証文を交わしており、武家が新田場の困窮した百姓に地所を担保として金銭を貸与し、返済不能の場合、地所を抱屋敷とした上で、百姓を屋守として仕付ける関係があったことがわかる(小川家文書)。